前回のブログで、スポーツやエンターテイメントになんの意味があるのか?究極的には何もない!そんなことを書いた。そしてちょっとしたニヒリズムであると。
と、書いた後、なんだか気恥ずかしくなってきた。
というのは、ニヒリズムっていうけど、そんな軽いものかなあとの思いが生み出されてきたというか、想起されてきたからだ。
ニーチェが「神は死んだ」と宣告した時、神のいない世界、そここそがニヒリズムである。とはいえ、西欧世界で生きてきた人間が「神」の「死」を宣告するというのは、自分たち背負う世界の根本を破壊した言葉であるのかと問わざるを得ない、重大でかつ深刻な現実であった。
そこでニーチェの葛藤や煩悶が生じる。ひょっとしてニーチェが気が狂うかのような状況に陥ったのは、西欧世界の住人皆が信じて疑う事さえ憚れる事実に直面し受容したことにあったのではないかとさえ思うのだ。
それと比して、僕ごとき日本人日本人していて、「神」の存在なんてなんとも思っていない人間に、なんのニヒリズムであるのかといえば、ニヒリズムに落ちることさえないくせに、何をヒロイックな思いを抱えているのか、そんな恥ずかしさが生じてきた。
ついでにわかったような口を聞いている自分にも恥ずかしさを感じざるを得なくなった。
僕はスポーツやエンターテイメントに耽溺することが、その人物の人生そのものになるような人生のあり方を対象化した。ということは、そこに自分の人生なるものに意味を見出そうという”欲望”が無意識的であるとはいえ、組み込まれている。
意味を見出そうとして、何がニヒリズムか?意味のない世界を生きることこそ、ニヒリズムの定義であり、西欧世界であれば、その意味の源泉である「神」の否定が、そのままニヒリズムになるという端的な事実。
だから、わかった気になる横暴が僕にあった、そういう反省を生んだのだろう。
とはいえ、そういう思いを書くブログを作っている自分って、これまた矛盾しているような気もしてきた。まあでも人間って矛盾した存在だよと、自己弁護にならない自己弁護をして、時が過ぎていく、そういうことにしておこう。