「暴力に関する本当の問題は別の次元で提起される。それは、
豊かさと安全が一定の段階に到達したときににじみでてくる
統御不能な現実の暴力の問題である。」ーージャン・ボードリ
ヤール
世界がどのような状態にあるのか。この短い文章が的を当てる。
否、日本こそ、この典型、そんな気がする。
進化した暴力とは、「豊かさと安全」を満喫する社会において、意識に昇らない形で、我々を包摂する雰囲気である。この雰囲気は、人々の満喫状態が、人々の土台を掘り崩しているのに気づかない。暴力は人々の暮らしの土台を壊す力である。
例えば、公的年金の支給が引き上げられるのに、実質的には負担大となる。税金や社会保障を複雑化することにより、人々に起きていることが何であるのか、理解が難しくなる。あるいは負担として微増であると気にしなくなる。これが暴力なのである。で、国民負担率がいつの間にか半分近く。
でも、殴られているようには思えないから、暴力と認識されない。だから税金や社会保障はわかりやすい必要がある。複雑化するということは、「どうせわからないだろう」との蔑みを併せ持つのだ。
あるいは、復興という言葉を使う。復興は国目線からの言葉である。ところが一人ひとりの生活は一人ひとりの目線にある。ここで国と個人との間に認識論的に乖離が生じる。
国というのは国民という抽象的存在を対象とする。だからマジョリティにのみ目線が向かう。特に日本の国家の体制がパターナリズム的体質であれば、弱者の方には温情としての目線になる。無意識的に。だから個々の生活には目が向かない。
暴力は個に向かう。切り捨てられる、つまり棄民政策に無意識的に向かう。国の方に目が向かう。能登地震では、馳知事がまさにその象徴的人物であった。
暴力はこうやって「豊かさと安全」を満喫する社会において暴力ではないという面構えをしてしまう。そのうち本当に貧しくさえなってしまうというか、なってしまった。
気づくしかない。暴力とはなんであるのかについて。
ボードリヤールの処方箋はどうだったろうか。逃げるしかない?死ぬしかない?だったかなあ。
やっぱり気づくことしかない、そこから始めるしかない、そういう可能性を探るしかない。そういう気がするし、そういう兆しがある気もするのだ。