国会議員の音喜多さんが国会欠席の令和新撰組の2議員に対して歳費返納をするべきとTwitterに投稿したらしい。
あ〜〜、どうしようもないなあと僕は思った。
令和の2議員といえば、よく知られている通り、重度の障害を持っている。今回のコロナ騒ぎで、ALSの彼らが呼吸器疾患に患うことになれば、危険が差し迫ってしまう。そこで、彼らは国会を欠席している。
音喜多さんはそういう状況を認めながらも、歳費返納がないと国民が納得しないと主張している。国民が納得しないのではなく、音喜多さんが納得しないだけでしかないとは思うが。
その後批判を浴びた音喜多さんは謝罪の言葉を述べたらしいが、彼こそが、あるいは彼のような考えこそが差別になること、あるいは障害を持つ人々の活動を萎縮させることをわきまえるべきである。
音喜多さんはどうも「働いたから賃金がもらえる」、ましてや「国会議員は税金だからなおさら働くことに責任がある」という考えが強いのであろう。そして、僕たちだって似たような考えを持っている。
そういう考えこそが、障害を持つ人々が負わされている困難を理解させてこなかったのである。このことを理解していないのである。障害を持つ人々と共に暮らすということは、彼らの困難を完全に理解することなどできないにしても、人は理解しようとしてしまったり、理解してしまう。あるいはその困難を自らと重ね合わせる。
そんな理解の前に、音喜多さんが彼の人生で培ってきたものの見方を適応させてしまう。時に正論のような側面を持ってしまう。ある一定程度の人に共有されることがあるからだ。これは規範でもある。人の理解の前に、共感の前に規範を適応してしまう。頭でっかちの悪い癖だ。
障害者差別であるとか医学的配慮の問題であるとか指摘されるだろう。そこで、もう一度言う。障害を持つ人々が負わされている困難を理解することが大切なのであり、規範の前に要求される人間の構えである。普通にいえば、思いやりでしょ。もちろん障害だけではない。差別に関わることも同様である。そうすれば、音喜多さんのような発言は現れることもないだろう。