男女平等、ジェンダー平等に関しては、国連が提起するSDGSが位置付けている。理念である。
日本ではどうなるのか。詳細は調べればわかることであるから、その方向性のエッセンスを僕なりに。
法の下の平等を定める第14条第1項で、性別による「差別」も禁じていて、これを基本原理としているはずである。「はずである」という言い方をしたのは、実現していないからで、実現するよう努力しなければならない。そう国民から国家に命令しているわけだ。
同条第2項は、配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関して、法律は、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」に立脚して制定が求められる。
この考えが具体化し、法律となっていくのだが、例えば男女共同参画、雇用機会、育児介護、労働の法整備が進められた。よく知られるところだが、例えば育児介護は休みを取ることができるようにする法律であるから、実は労働問題として位置付けられているように思う。
法律であるから、家庭ではなく労働(つまりは社会)についてという意味合いが強い。そして、これは不可視の構造になっているのではないかと考えるが、家庭より社会が大切という現代社会の構造が反映されている。構造というのは、そもそも意識化することが困難であるから、不可視なのである。
これらを社会的行動に微分していうと、どのような現象として現れるのか。例えば、女性政治家の割合が少ない。会社で重役が少ない。女性はキャリア構築に不利である。つまりは子供を作れば、妊娠出産子育て、女性の負担が大きいのから。
これらを俯瞰すると、女性が主に担ってきた妊娠出産子育て、あるいは女性中心で実践されてきた家政のステイタスが、労働や社会的実践のステイタスより劣位という社会意識が構築されていることだ。
このような構造が生み出す社会意識の典型は、女性が抑圧されているとする物言いであり、それをポリティカル・コレクトネスとして採用して、文化闘争を仕掛けることである。ちなみに社会学者の宮台真司が、そのような人々をクソフェミと揶揄している。
先ほどの14条2項を見ても、個人の尊厳を重視するのは当然にしても、やはり社会的権利になり、現代社会では社会生活や労働の方に傾いてしまうのではないか、そんな不可視の構造が待っているような気がするのだ。
(続く)