経済的な豊かさは企業の活動が盛んであることのように観念される。
では、このような例はどうか。実際にかつてテレビで放送されていた話である。
おばあさんが台所に棚が欲しいが、自分ではできない。そこで何でも屋さんに依頼する。確か2万円だったと思う。おばあさんは「何でも屋さんがあって良かった」と感謝している。テレビもまた何でも屋さん奮闘記という程で編集している。
僕たちもこのような放送を見て、便利屋さんが役に立っていると思う。確かに役に立っている。これが僕たちの価値規範だが、僕は違う見方をしていた。
僕が子供の頃、家の大工仕事があった場合、父親がやったり、あるいは近所の人がやったりしたものだ。我が家は母子家庭(最近言わなくなったよね)。近所にたまたま親戚のおじさんがいて、お願いしたりしていた。別にお礼をする訳でもなく、まあ仕事終わりにビールかなんか飲んでもらっていたように記憶している。ちょっと酒癖悪かったと思い出す。
で、現在はそういう場合、業者に頼む。社会が変わったのである。共同体ではなく、サービスを提供してくれる業者さんにお願いする。かつて自分たちでやっていたこと、共同体内部で実践していたことを外部に頼む。外部とは営利を目的した業者さん、そして企業。そう変わったのである。
人類の長い歴史の中で、市場が個人と個人の間に入ったことはない。個人と個人との間とは、だから共同体である。現代は共同体を分裂させ、共同体をどんどん小さくしていく。どうにか最後に残ったのが家族である。一応断っておくが、家族が共同体の役割を果たせず、ネグレクトされる子供もいる。共同体が小さくなったので、親にネグレクトされても、その家族と結びつく、あるいは包摂する共同体が存在しないのだ。
人間の生命は共同体に抱かれている。おばあさんは便利で良かったけれども、そのような肯定的感情が生み出されるのは、助けてくれる共同体を喪失しているから、そういう構造の問題を見過ごしてはいけない。経済はこの共同体の助け合い、相互扶助を忘れている。
おばあさん、その2万円違うことに使えたんじゃないの?自分たちでやること(自律)が大切。