看護師と言えば近代看護師教育のフローレンス・ナイチンゲールを私は思い出します。
“クリミアの天使”といわれた方です。
私はとある理由により看護師学校の卒業式に居合わせたことがあります。
居合わせという表現は、それが目的ではなかったということで、あくまで他の目的でそこを訪れたということです。
※イメージです。
式典への参加を責任者の方から促され、滅多に見れないことなのでご覧になっていって下さいという有難いお誘いでした。
看護師の卒業式には「ナイチンゲール誓詞」により誓いをたてます。
ナイチンゲールが作ったものではありませんが、ナイチンゲールを称えて作られたようです。
〔ナイチンゲール誓詞〕
「われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん
わが生涯を清く過ごし わが任務(つとめ)を忠実に尽くさんことを
われはすべて毒あるもの 害あるものを絶ち
悪しき薬を用いることなく また知りつつこれをすすめざるべし
われはわが力の限りわが任務の標準(しるし)を高くせんことを務べし
わが任務にあたりて 取り扱える人々の私事のすべて
わが知り得たる一家の内事のすべて われは人に洩らさざるべし
われは心より医師を助け わが手に託されたる人々の幸のために 身を捧げん」
ナイチンゲール誓詞に対する私の解釈は「看護師としての誇りを忘れず、それを常として最善を尽くす」というものでした。
看護師はどうあるべきかを説き、自分の心の奥に持ち続けるためのものでもあるように感じました。
そして職業についての倫理を深く自分に問いかけたのは、この式典がきっかけではありませんが、実に感慨深いものがありました。
あの光景(式典)を見た後で看護師さんが普段そこらの同世代の方たちと同じような様々な会話をしていても、“その時”が来たら、その誓詞のように気丈に振舞うのだろうと思っています。
また、それを固く今でも信じています。
ただ今回信じたくないことが、信じたくないような地域で発生しました。
これを「ネタ」としてアップしているつもりはありません。
職業の倫理を忘れた人は“砂漠に迷った子羊”のようなものであることを言いたいのです。
何の目的でそこに立っているのかを知らない者は、無責任といえる行動に陥りやすいということを誰かに伝えたいのです。
それをこのブログを見ている将来のある若い方に問いたいのです。
今回の事案は次のような病院で発生しました。
最初に説明しますが、何が起きたのかが私の問題で、何処の誰(氏名や年齢、性別)が起こしたか、その不始末に対する処遇に関することは問題にしません。
この病院は東北の宮城県、海からほど近い場所の大きな病院で、関連施設で「ディサービス」まで行っている多角経営の病院です。
問題の内容は、入院されている方と看護師が口論になり反射的に殴ってしまったという職業倫理に欠ける事案です。
状況についての詳細は乏しく、次のことしか分かりません。
看護師が明け方汚物処理中、患者に自分の腹部を蹴られ、反射的に殴ってしまったということになっています。
顔を殴ったことを看護師が認め、家族にも謝罪したとのこと。
警察への被害届についても家族がしたのでしょう。
今年の6月の出来事のようですが看護師本人が病院を去ることはないようですから、警察署で暴行、障害事案の立件がむずかしく、示談の方向で何らかの方法によって相互に調整した結果であると考えます。
また、この類の事案は一方向から見た場合の悪であることも考えられるので、普段からの入院患者の素行がどうであったかも評価されたのかもしれません。
状況によっては、ある意味、正当な防衛行為だったのかもしれません。
それがプライベートで公道、公共の場所であればのことですが。
しかしここは弱者を守るべき病院なのです。
明日まで生きられるのか、どうなのかという人もいます。
そしてその家族もそこにはいます。
私も看護師になろうと決意する者も。
そこは誰かの手助けを必要とする人たちが常にいる場所なのです。
この看護師さんのご家族が東日本の震災により、不幸に見舞われて精神的に限界であったのか。
それに触れるような発言が患者から日々受け、話しかけられても雑談の範囲の問いかけであれば、あえて無視をするようにしていたのか。
それともただのフラストレーションによるものなのか。
本当の理由は本人と入院患者でしか知りません。
ただそういうことも“何の精神”で乗り越えるべきなのかということです。
確かに患者さん側も蹴るということは暴行または傷害行為で、刑法で裁かれる行為です。
ただ説いているのです。
「左の手で殴られたから、左と右の手で殴り返せ」という誓いは“ナイチンゲールの誓詞”にはありません。
職業倫理という言葉は漢字で書けば「僅か4文字」です。
ただそれを貫くことは「強い自覚と強い意思」が必要です。
看護師として殴る相手が誰であるかを考えて欲しかったのです。
殴るべき相手は“病”という悪なのです。
負傷したものが善であっても、悪であっても治療は平等の精神です。
誰からも“白い天使”として見られることこそ、求める“職業倫理”のひとつです。
クリミアの天使の子供たちとして“あの日、心に誓った命の尊さ”を忘れないで欲しいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます