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1000年に1度の無駄と備え

2014年10月05日 | 災害防止

10月4日で御嶽山噴火災害から1週間が経ちました。

 

 

巷では1週間も経過しているのに何を自衛隊や消防、警察がやっているのかと厳しい意見もあるようです。

 

大体は報道によって過酷で困難であることを紹介していますが、残念ながら口で言ってもなかなか伝わらないのは、現場の隊員たちの精神的な苦痛と現場の過酷な環境だと感じます。

 

 

彼らだからこそ体力の限界を超えて不明者救助に強い精神力で向かい合っています。

 

 

体力のない人は下り坂であっても、足首から上までぬかってしまう状態で、それも1週間も経過した、降り積もった火山灰の道を歩くことは困難です。

 

また、粒子の細かい泥の中を歩くと、普通の人は膝まで埋まったら動けないのです。

 

足首が泥によってロックされた状態になり身動きがとれません。

 

 

※初期の段階の火山灰と考えます。これでもまだそんなに降り積もっていません。

 

 

 

土なのか泥なのか、細かい粘土質なのかで違います。

 

 

 

火山灰は粒子の極めて細かい粘土質なので歩くだけでも体力が奪われてしまいます。

 

 

それを登っているのですから尋常でない体力といえます。

 

 

ヘリコプターで災害当初に現地に向かえばよかったじゃないかという意見もありました。

 

 

※某外国の山岳で救助ヘリが落ちたもの。

 

 

エンジン燃焼で何が必要になるかを検索していただければ、それが答えであることがわかります。

 

 

砂漠の悪路を走る車両はエアフィルターをより強力なものにしています。

 

 

空に舞いあがり、風向きによって変化する火山灰の中をより近くまで何回も簡単に飛べないのです。

 

 

他にも有毒性ガス、大きな噴火と噴煙と噴石、様々な危険なあるため、二次災害を防止することを視野に入れての救出活動なのです。

 

 

だから体力よりも救助し難いことに対して、誰よりも精神的な苦痛を感じているのです。

 

 

不明者の家族の悲痛な叫び、既に亡くなっていることは明白であるものの、ひとりでも生きていて欲しいと願う気持ちが顔に出るのです。

 

 

死亡の確認は医師でない者はできません。

 

 

 

 

 

だからそれとわかっていても“救出・救助”という表現なのです。

 

 

それを救助・救出なのか、現場の隊員は知っています。

 

 

 

 

 

その行動を無駄とかチマチマやっているとか、そんな無責任なことを言ってはならないのです。

 

 

絶対にです。

 

 

 

知るべきは、次の噴火がいつ発生するかもしれない中で、自衛隊のヘリに乗って移動したもの。

 

 

 

 

 

 

確実に“死の覚悟”をもって登山口から頂上に救助に向かった隊員たち。

 

 

同じ人間であることを忘れないで欲しいと私は思います。

 

親兄弟、家族もいます。

 

それを押し退けて登るのは指示の前にひとりの人間として、自分が助けたいと思うその気持ちだけです。

 

※かなりの降灰で、雪のように火山灰が積もっており、歩くだけでも大変であることがわかります。

 

 

生還した登山者が死を覚悟して逃げてきた場所に向かうということは、そういうことなのです。

 

 

 

 

取り残されてしまった人すべてが見つかること、そして現場で“救助・救出”に派遣されている隊員たちが二次災害に遭わないことを祈ります。

 

 

ここで責任問題について少し触れておきます。

 

 

噴火は誰の責任でもありません。

 

 

勝間なんとかさんが、仕分けでどうのこうので、今頃釈明している、どばっちりを受けた、解釈の違いなんですという話題は私にとってはどうでもいいことです。

 

 

地震は地殻がその状態になったら地震となり、噴火しかりなのです。

 

 

それを計器で調べて予測しましょうということも正論で、私たちにはあってほしい安全対策です。

 

 

この“安全”という言葉が世の中にありふれていますが、安全とは誰がきめるものなのでしょう。

 

 

結果は自己の満足の度合いだけなのです。

 

 

 

ドアがあるから安全。

 

そのドアの鍵が二重だからより安全。

 

そのドアが堅牢で特殊鍵だから安全。

 

 

これが世の中で理解されている安全神話です。

 

 

いつ、どこで、なに(危険)が身に降りかかったのかは、後になってそれが危険であったと改めて知ることになるのです。

 

 

御嶽山が登山者に対して登る前に活火山で危険だということは知られていました。

 

 

ただその山肌を見て、紅葉に染まっている景色を見て誰も危険だとは思いません。

 

 

 

 

今になって地下シェルターという言葉が独り歩きしていますが、私は必要であると思いますが、避難小屋の下にシェルターを作っても1分程度の時間で避難することが困難であると感じます。

 

登山者が細い道と険しい岩肌の上り下りをしていることを考えれば、より頂上に近い場所は地下という選択以外に土砂崩れの対策と同等のもので小さな“堅牢な盾”のようなものを各所に設置するのも良いかと感じます。(時間的余裕がないため)

 

 

火山灰の危険を考慮するのであれば、取出しが簡単な15分程度の小型酸素ボンベを登山口で貸し出して、それを携帯していないと登れないことにするのも1つの検討すべきことだと感じます。

 

 

火災で亡くなる人が火によって死ぬのではなく、煙によって意識がなくなり死んでしまうということ。

 

 

火山灰で呼吸困難になり噴石で死んでしまうことを考えれば、活火山では今後必要になってくるかもしれません。

 

ここまで記すと登山って危険なんだと感じてしまうのですが、自然により近づくというのは危険であるとか、安全であるとかではなく、自然のみが知る古からの繰り返しの自然現象であるということだけなのかもしれません。

 

 

今回の登山者が日本人であるが故に、不幸にも命を落としてしまったのではないかと感じることがありました。

 

 

それは頂上の社務所に避難しようとした際、社務所のドアが施錠されていて中に入れず、やむなく屋根の“ひさし”の下で何人も覆いかぶさるように時を待ったということでした。その結果、何人かなくなっているということ。

 

 

日本人はドアは手で丁寧に開け閉めするという習慣が身に染み付いています。

 

 

だからこそ、避難小屋その他施設では緊急時には足で蹴って中に入れるようなことを検討できなかったのか残念に思うのです。

 

 

ドアに「緊急時は足で蹴ってくださいと」あればということです。

 

 

緊急時の行動を知る人は100%足で蹴っているはずです。

 

 

誰にでも入れるように、今後はドアに緊急時のみの開閉できる簡易ノブをつけて欲しいと感じます。

 

あくまでも結果論なのですが。

 

 

 

 

 

活火山に登ると言うこと、山に登るということ、国として国民を守るという立場をしかっり考えて欲しいと感じます。

 

 

ただ、その判断基準は「安全とは何か」ではなく、どんな危険なのか、何が危険なのかという告知です。

 

 

事故や災害はその時に起きていません。

 

 

だから目安が必要となるのです。

 

それが“統計”というものです。

 

 

 

それを私たちが勝手に人類の偉大な知識として利用する限り、後手に回る可能性は高いといえます。

 

 

“備え”とは1000年に1度の災害を想定しているのではありません。

 

 

“その時に必要”として予め用意するものです。

 

 

その備えこそ被害を最小限に食い止めるとして期待されているものです。

 

 

 

人の命は予算で買えません。

 

 

 

無駄とするならば、すべてが無駄といえます。

 

 

数字を根拠に自然の災害を語るべからず。

 

私はそれを一人の国民として誰かに言いたいのです。

 

 

私たちの知らない古を近年のデータだけで物を語るのではなく、近年に何が起きたのかを学習するだけでも“何”か出来たのかもしれません。

 

私たちの持っているこれまでのデータは、近所のあの交差点でまた事故、泥棒がこの界隈で多いとかという、体感的なデータと等しい程度なのかもしれません。

 

だからこそ予知できぬ自然災害から身を守ること、それを備えるのです。

 

それを防災対策というのですが、無駄な対策とは言ってません。

 

そのうえで災害を回避する手段、身を守る手段を構築する責任があるのではないでしょうか。

 

 

 

 

参考に申し上げておきますが、外国の標高の高い山では場所によって救出は困難ではなく、無理であることからずっと放置されており、その死体が“道標”になって登山者を守っていることもあるという事実、それが「山」に登るということなのかもしれません。

 

 

 



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