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お花畑と言うならそれをどう守るか

2015年08月16日 | 日記

国民の頭が「お花畑」になって平和ボケしているから、安倍さんが必死になって日本を守ろうとしている。

こういう意見を言う、どこかの偉いコメンテーターがいます。

それも女性です。

既に終戦したということ。

日本は敗戦国であるということ。

どこかのあまり好きではない国に、今一度、チャンスを与えられたこと。

しかしながら、日本を最低限守るべき“自衛隊”というものがあること。

そして、これ以上の脅威にはなってはいけないこと。

この意味を理解していれば、そんな発言はできないはずなのに。


お花畑というならどんな表現が適切で、どんな場所がこの日本に必要だと感じているのでしょうか。

最低でも、戦うということではなく、「侵略行為」から守るというのが適切な表現かと思うのです。

戦うことと、守ることは違います。

昔、日本は守ろうとしたのでしょうか?

守ろうとしなかったから、多くの犠牲者、つまりは「国民」を“盾”にしたのです。

「非核三原則」が何を意味するのか、このコメンテーターは既に「核」をこの国に必要だと訴えているのです。

どんな兵器も核の前では無力です。

戦うという意味はそういうことです。

大人と子供が殺し合いをしても、どちらが勝つか明白です。

そうしたら、戦うことを前提にする国は「核」を1つでも多く備えることを考えるのです。

死ぬことを前提とした“戦い”なのか、生きることを前提とする“守り”なのかを考えれば、武力ではなく護衛力なのです。

 守るということは相手と“適切な間合い”を維持することですが、最大の武器を持つこととは違います。

間合いとは、私たちの身近なところでも感じられます。

生活圏でも“危険”は多く存在しますが、それは置いておき、山と街のお話を例としてみます。

街と山はそれぞれのエリアを住み分けとしています。

ただ、動物は言葉を発しません。

動物が街に入れば、侵入したかの如く駆除されます。

逆に私たちが山に入ったらどうでしょうか。

熊は私たちを見ても理由もなく襲っては来ません。

襲う場合はテリトリーに入りすぎたり、餌を取られると感じたり、子熊を守ろうとするためです。

私たちも、動物も互いのエリアに入らなければ何の問題にもなりません。

これが間合いです。

武器を持つことで、国を豊かにすることはありません。

互いの経済を発展させることこそ、最大の課題なのです。

そのための知識と知恵なのです。

殴り合うよりも、手を取り合うことで先に進めます。

殴り合うことは、その場に踏みとどまることができても先には進めません。


生死を考えたこともなく、また、その場に立ったこともなく、身勝手なことを言うのは止めてほしいものです。

日本になかった「お花畑」を、人の血と肉と悲しみで勝ち取ったのです。

そのお花畑が悪いのではなく、お花畑の存在に感謝できない、自分の心の貧しさが悪いのです。

お花畑を守りすぎることではなく、お花畑を他にも作ることを勧めるコメントをして欲しいものです。


最後に一言。

どこかの国は経済を発展させるため、好んで戦うという選択肢があること。

そしてそれらを支援する軍事産業が多く存在すること。

それを忘れてはなりません。

そして、国土を発展させるため、先住民をどうしたかもです。


日本も軍事産業を大きくすることになっただけでも、既に墓穴を掘ったも同然なんですよ。

侵略を前提としなければ、ボタン1つで終わるということも知る必要があります。

これがわからなければ、いちど、ナイフを持った暴漢と向き合って欲しいものです。

相手がナイフだからこちらもナイフを取り出し、どうかできるものなのかという、初歩的なことですが。

殺される前に殺すことを教える人間にはなりたくありませんね。

平和という言葉なんかわからないほど、ボケることが継続できる日本が素晴らしいのではないでしょうか。

でも平和に感謝する気持ちと、先祖を戦争で亡くした事実を忘れない限り、いくつになってもボケませんよ。





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