国民の頭が「お花畑」になって平和ボケしているから、安倍さんが必死になって日本を守ろうとしている。
こういう意見を言う、どこかの偉いコメンテーターがいます。
それも女性です。
既に終戦したということ。
日本は敗戦国であるということ。
どこかのあまり好きではない国に、今一度、チャンスを与えられたこと。
しかしながら、日本を最低限守るべき“自衛隊”というものがあること。
そして、これ以上の脅威にはなってはいけないこと。
この意味を理解していれば、そんな発言はできないはずなのに。
お花畑というならどんな表現が適切で、どんな場所がこの日本に必要だと感じているのでしょうか。
最低でも、戦うということではなく、「侵略行為」から守るというのが適切な表現かと思うのです。
戦うことと、守ることは違います。
昔、日本は守ろうとしたのでしょうか?
守ろうとしなかったから、多くの犠牲者、つまりは「国民」を“盾”にしたのです。
「非核三原則」が何を意味するのか、このコメンテーターは既に「核」をこの国に必要だと訴えているのです。
どんな兵器も核の前では無力です。
戦うという意味はそういうことです。
大人と子供が殺し合いをしても、どちらが勝つか明白です。
そうしたら、戦うことを前提にする国は「核」を1つでも多く備えることを考えるのです。
死ぬことを前提とした“戦い”なのか、生きることを前提とする“守り”なのかを考えれば、武力ではなく護衛力なのです。
守るということは相手と“適切な間合い”を維持することですが、最大の武器を持つこととは違います。
間合いとは、私たちの身近なところでも感じられます。
生活圏でも“危険”は多く存在しますが、それは置いておき、山と街のお話を例としてみます。
街と山はそれぞれのエリアを住み分けとしています。
ただ、動物は言葉を発しません。
動物が街に入れば、侵入したかの如く駆除されます。
逆に私たちが山に入ったらどうでしょうか。
熊は私たちを見ても理由もなく襲っては来ません。
襲う場合はテリトリーに入りすぎたり、餌を取られると感じたり、子熊を守ろうとするためです。
私たちも、動物も互いのエリアに入らなければ何の問題にもなりません。
これが間合いです。
武器を持つことで、国を豊かにすることはありません。
互いの経済を発展させることこそ、最大の課題なのです。
そのための知識と知恵なのです。
殴り合うよりも、手を取り合うことで先に進めます。
殴り合うことは、その場に踏みとどまることができても先には進めません。
生死を考えたこともなく、また、その場に立ったこともなく、身勝手なことを言うのは止めてほしいものです。
日本になかった「お花畑」を、人の血と肉と悲しみで勝ち取ったのです。
そのお花畑が悪いのではなく、お花畑の存在に感謝できない、自分の心の貧しさが悪いのです。
お花畑を守りすぎることではなく、お花畑を他にも作ることを勧めるコメントをして欲しいものです。
最後に一言。
どこかの国は経済を発展させるため、好んで戦うという選択肢があること。
そしてそれらを支援する軍事産業が多く存在すること。
それを忘れてはなりません。
そして、国土を発展させるため、先住民をどうしたかもです。
日本も軍事産業を大きくすることになっただけでも、既に墓穴を掘ったも同然なんですよ。
侵略を前提としなければ、ボタン1つで終わるということも知る必要があります。
これがわからなければ、いちど、ナイフを持った暴漢と向き合って欲しいものです。
相手がナイフだからこちらもナイフを取り出し、どうかできるものなのかという、初歩的なことですが。
殺される前に殺すことを教える人間にはなりたくありませんね。
平和という言葉なんかわからないほど、ボケることが継続できる日本が素晴らしいのではないでしょうか。
でも平和に感謝する気持ちと、先祖を戦争で亡くした事実を忘れない限り、いくつになってもボケませんよ。
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