【10】へ
一方、こちらは病院の毬江と小牧。
簡単な入院食を済ませた後、早めに就寝するよう毬江は看護師に言い渡された。
24時間完全看護制で、よほどのことがない限り付き添いは認められないということだったが、台風ですぐに駆けつけようにも駆けつけられない毬江の家族に代わって、小牧の付き添いが一晩だけ許可された。
頭の包帯が気になるのか、それとも腕に射しこまれた点滴の管のせいか、毬江はなかなか寝付けなかった。
嵐は一時期よりも威力を弱めたようだが、それでもひっきりなしに雨と風を窓に打ち付けては、消灯後の病院内の静けさを乱していた。
「……幹久さん」
顔をわずかに小牧に向けて毬江が呼んだ。
枕もとの灯りを絞っているせいで、表情が読み取りづらい。
小牧は「ん? どうしたの」と顔を寄せた。
「どこか痛む?」
毬江は目だけで違うと言って、
「起きてるのかなと思って。目、閉じてたから」
「ああ……。寝てはいないつもりだったけど、うとうとしてたかな」
小牧は毬江のほつれた髪をさりげなく直してやった。
「ごめんね。疲れてるのに付き添ってもらうことになっちゃって」
表の風音に呑み込まれてしまいそうな小声だった。
本来ならば、寮にはとっくに帰り着いて、熱いシャワーでも浴びて、海の話を肴に寮で堂上たちと飲りあってる頃合だろう。それを思うと毬江はなんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
寝付けない最大の原因はもしかしたらそこにあるのかもしれなかった。
小牧は肩をすくめた。
「謝らないで。毬江ちゃんに謝られるときつい」
「なんで?」
思いもかけない言葉に、毬江は怪訝そうに目をしばたたかせる。
苦いものをうっかり口に含んだときのように、小牧は薄く笑って見せた。
「俺のほうこそ君に謝らないといけないから。――俺、毬江ちゃんを助けられなかった。ごめんね」
嵐にまぎてしまいそうな低い声で小牧が言った。でも、彼の悔恨はくっきりと夜を縫って伝わった。
毬江は思わず上体を起こしかけた。
「幹久さん」
「だめだよ、動いちゃ。点滴が外れてしまう」
それをやんわりと制止ながら、小牧は毬江を元の態勢に戻した。
「……助けられなかったことに罪悪感を持つのは毬江ちゃんのせいじゃなくて俺の理由だから、君は気にしないで。とにかく、あの時俺は君から離れちゃいけなかった。堂上に頼むとか声をかけて場を外すなんてどうかしてた。海が、どれだけ危険なところか忘れていたわけじゃなかったのに」
油断した。小牧はそう結んだ。
彼の指が、毬絵の耳に添えられた補聴器の曲線を控えめになぞる。
「いっときも毬江ちゃんから離れるんじゃなかった。本当にごめん」
「……あたしこそ心配かけてごめんなさい。小牧さんだけじゃなくて、みなさんに迷惑かけて」
「迷惑なんかじゃないよ。そんなこと誰も思っていない」
「でも」
「いいんだ。その先は、ストップ」
小牧は、補聴器から毬江の唇へと指先を移動させる。
そっと、柔らかな唇のふくらみに指を押し当てた。
毬江は口をつぐむしかない。
小牧は言った。
「とにかく、あんな思いはもう二度とごめんだ。心臓が止まるかと思った」
「……それって、あたしが海から引き揚げられてたときのこと?」
迷った末、毬江が小牧の指を点滴がされていないほうの手で握る。そして彼の人差し指、中指、薬指の関節にキスを加えていった。
小牧は少し困ったように、毬江を見下ろし、
「うん。堂上と笠原さんに蘇生法、されてるの見て、冗談じゃなく目の前がこう真っ暗になって、足元が揺らいだ」
あのときの事は、思い出すのもキツい。
視界は一面重いグレイだった。それが嵐の前、空を覆い尽くしていた黒雲のせいだと後になって気づいた。
そして群がる人だかり。沈んだ色合いの背景とはちぐはぐなほど色とりどりの水着が目にうるさくて、思い出すだけでなんだか頭痛がしてくる。
苦い思いで息苦しくなる。
小牧は変わらぬトーンで続けた。
「正直、君が、毬絵ちゃんが堂上に人工呼吸されてるのを見て、とっさにあいつを突き飛ばしそうになった。血が、カアッって頭に一気に上ってさ」
必死に助けようとしてくれてるのにね。
そう呟く小牧の顔には、いつものようにかすかな笑みが浮かんでいて、どこにも激した後の感情の名残は見当たらない。
しかし、毬江はどれだけ自嘲気味に言って流そうとしても、隠し切れない彼の悔しさを読み取ってしまう。
恋人だから。嫌でも分かる。
「幹久さん。来て」
小牧の手を握ったまま、毬江が言った。
「えっ」
「あたしの隣に入って。―― 一緒に、横になって」
そう言いながら、わずかに身体をベッドの端にずらす。
小牧は当惑した。
「だって、ここ、病院だよ」
深夜の看護師の巡回もあるだろう。個室とはいえ、いつ何時、病院の関係者が顔を出さないとも限らない。
けれども毬江は譲らなかった。
「こんなときぐらいわがまま言わせて。ね? 一緒に眠ってほしいの」
こんな風に可愛らしくおねだりされて、断ることのできる男が世の中にいるだろうか。
小牧は自問しながら、それでも一応年長者としてそれとなく話をそらす振りをして見せる。
それが、照れ隠しであるという自覚をもちつつも。
「一人用のベッドだから、俺が入ると窮屈じゃない?」
「そんなことない。幹久さんと一緒に、手をつないで眠りたい」
そうすればきっと、ぐっすり寝られると思うの。
毬江に懇願されて、小牧は完全ギブアップだった。
だめだ。可愛すぎる。
犯罪級だよ。
「……珍しいね、毬江ちゃんがわがままだなんて」
高鳴る胸を気取られぬよう、何食わぬ顔で小牧は靴を脱いだ。そして、なるべく音を立てないようにベッドに乗りあがる。
しかし、二人分の体重がかかったせいで、ベッドの足がぎち、と鳴る。
その音が、寝静まりかえった病棟に大きく響いた気がして、一瞬、二人は顔と顔を見合わせる。
ややあってどちらからともなく相好を崩し、ゆっくりと小牧は毬江の隣に身を横たえた。
身体の位置を決めると、すぐに毬江が小牧の手を握ってくる。
目と目が、合った。
吐息がかかるほど、顔が近い。
「……幹久さん、好き」
側についていてくれて、ありがとう。
しっとりと潤んだ目でそう囁く毬江が愛しくて、小牧は彼女の額にこつんと自分のおでこをくっつけた。
「だめ。もう理性、飛びそう」
思わずそう漏らすと、毬江は「嬉しい」とちいさく笑った。
嵐の夜の中。二人の体温が同じだけ上がったようだった。
【12】へ
web拍手を送る
たくねこさんの警告、しかと小牧に伝えますね。