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私という世界でたった一つの物語

野口英世とその母 その3

2011-07-18 | 写・画・絵・詩・物語

もとより手習いをする紙も筆もないシカにとってはこうするより外に仕方がなかったのであるが、ただそれだけではかなが読めるというだけで、実際に書くことが出来ない。そこでシカは月のある晩は家人の寝静まるのを待って盆の上に灰を撒き、そうっと外に出て、僅かな月の光を頼りにその灰の上に指先で手習いを始めるのであった。祖母みつの病気は日に日に重くなってきた。僅かな暇を見てかけつけてくるシカは見舞う度毎に衰えを加えて行く祖母のからだにしがみ付くようにして泣き入るのであった。どうにかして癒してあげたいと観音の慈悲を子ども心に念じくらしてきたシカの涙は決して絶望ややけの涙ではなく、ただ疑うことを知らぬ。

美しい子供心の熱願のそれであった。十文、二十文と給金の先借りをして買い求めて来る僅かな売薬を祖母みつはあたかも観世音の御手からでも戴(いただ)くように有難く押し頂いて飲むのであったが、多年の労苦に衰え切った身体には何の効き目もないばかりか病は日に日に重くなってきた。そして

「おばあちゃん、死んじゃいや!」

と泣き叫ぶシカの声をよそにみつの魂は今こそ永遠の平和を得て遠く高く消えて行った。
その死骸に取りすがって気狂いのように泣き入るシカの姿はその平常を知っているだけに村人たちの涙を誘ったいう。村人の情けで葬儀を終わってから四十九日目のことであった。

シカは祖母の葬ってある長照寺にお参りをした。住職の前に十銭銀貨を一枚差し出して恥かしそうに

「これでおばあちゃんのために観音さまのお経をあげてくださいまし」と頭を下げるシカの姿を住職はぐっと込み上げてくる涙と共に見つめていた。何といういぢらしいシカの心根であろうか。シカが今差し出したこの十銭!シカにとっては非常な大金であったに相違ない。どんなにか苦労をして持って来たのであろう。

受け取ろうか、返してやろうかと考え込んでいた住職はやがて丁寧にその十銭を片手に捧げ、片手にシカの手を取って仏前に座った。念彼観音力・・・と読誦し続ける住職の声は幾度か感激の涙にと切れようとした。亡き祖母の菩提を弔うために僅か十一歳の少女のシカが必死の努力を続けて仏前に捧げた十銭の志納は住職の魂を、その奥底から揺り動かしたのである。

快くこの十銭を受け納めてやることこそ、亡き仏に対する何よりの供養であろうと住職は考えたのであったが、今眼の前に見るこの十銭貨が何十倍、何百倍の経料にもなって尊く思えたのだという。住職が渾身の誠を捧げて誦しつづける観音経の声はただこの本堂に甘露の法雨を降り注いだばかりでなく、さぞかし祖母みつの霊を慰め喜ばせたことであろう。

家出をしてから九年目に、母のみさが帰ってきた。父も帰って居た。しかし貧のどん底に喘ぐ一家、それも働くことの楽しみを知らぬみさ夫婦には団欒の喜びは味わえなかった。唯一人シカだけはすくすくと伸び立って父母のため一家のために朝となく夜となく働き続けていくのであった。シカは今二十歳になっていた。この間、シカの努力と精進とにおいては語るべき多くのものがあるのであるが、恐らくこの間のことであったろうと思われる一事を述べるに止めて置く。シカが厳しい子守り奉公の中に稲荷堂の法師に手習いの指導を受けたことは前にも述べた通りである。

後年この地方に悪疫が流行して、法師の一家は枕を並べて倒れてしまった。病の伝染を恐れて誰一人看護をしてやろうという人もないので、今は一家空しく死を待つより他はなかった。
かつてのささやかな恩義を忘れなかったシカはこの法師一家の惨状を見るに忍びなかった。そして恩を報ずるはこの時とばかり敢然として唯一人、法師の一家の看護に当たった。

法師は救われた。山然禅師の発願文の中に「・・・疾疫の世にはしかも現じて薬草と為って況あを救療し・・・うんぬん」とある。これは正しく観音の慈悲をそのままに表現したものであろうと思われるのであるが、理屈と功利とを超越したシカの美しい信仰はシカをしかってこの観音の慈心を身を以って表現せしめたのであった。二十歳になったシカは世話する人があって、隣村から佐代助という婿を迎えた。しかし天の試練はまたしてもシカを苦難のどん底に突き落としてしまった。シカが力と頼んだ佐代助は無類の大酒家であり、怠け者であったのである。これまで観音の慈悲を唯一つの力として生きて来たシカにとっては失望ということがない。婿であれ、天であれ他人の力に頼って一家を興そうと考えたことがすでに大きな間違いであることをシカは教えられるとなしに知っていた。夫は夫として立てていこう、野口の家だけは自分一人の力で支えていこうとシカは苦難の中から雄々しくも立ち上がるのであった。結婚二年目に女の子が生まれ、四年目に男の子を儲けて清作と名づけた。

この清作こそ後年の医学博士理学博士野口英世の幼名であった。

つづく

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