お松のルーテル日記

キリスト教会(プロテスタント)での学びや聖歌隊での活動、
趣味の小説執筆や読書、サイクリングなどに関する日記

聖歌特訓!

2012年12月19日 | 聖書、信仰
今週末はいよいよ我等がイエス様ご生誕を祝うクリスマスに突入です

イヴイヴも、イヴも、クリスマス当日もイベントが目白押しです。
聖歌隊として歌声を披露する、それも大事な大事なイベントで披露する機会が多々あります。

しかし、僕としては、その割には聖歌の完成度に「いまいち自信が無いなぁ~」という・・・。
先週の土曜日、そして日曜日に練習があったのですが、全体としての完成度もいまいちでした。
聖歌隊々長であるT女史もイライラしてるように見えました。

「これじゃいかん!」

ということでT女史に特訓をお願いしました。
T女史は普段から様々な活動をして忙しくしている人ですので大変申し訳ないのですが・・・。
メールでの何回かのやりとりの結果、OKを頂きました!!

「どうせやるのならIさん(男性の聖歌隊員)も含めてやりましょう!
ということで本日午後6時、T女史のお宅に集合!!

特訓が始まりました・・・!!

練習曲は・・・

「清かに星はきらめき」「主はその群れを」「世の人忘るな」「クリスマス賛歌」「諸天は神の」

この5曲でした。
途中からIさんの奥様も合流して熱の入った練習となりました

特訓の結果、どの曲もかなり良くなったと思います!
もちろん、完璧には程遠い・・・
しかしながら、僕個人としてはかなり自信を持てるようになりました、それが大きい!!

T隊長、ありがとうございました!!

そして、特訓の後はT女史の手料理ディナーわーいわーい
ほんとは写真を撮っておきたかったのですが、撮るの忘れました・・・
なので写真は食べたあとの食器・・・(意味ね~

メニューは・・・オムライス、ビーフシチュー、インゲン豆、デザートにはマスクメロン!!

Tさん、ごちそうさまでした!!

23日のイヴイヴには同じくT隊長のお宅で聖歌隊全員が参加しての特訓があります。
そしてその後は聖歌隊だけのクリスマスパーティーをする予定ですいぇーい

これが楽しみです
僕は、教会に来て、そして聖歌隊に入って、実に何十年ぶりに心から楽しいクリスマスを迎えられます

今年はじめのドン底の頃・・・このような幸せを享受することになるとは夢にも思いませんでした。
またまた大袈裟かもしれません。
でもね、本当にそう思ってます。 思い切って教会に来てよかったのだ・・・と。

感謝の上に感謝。 感謝あるのみ。 生きてて良かった。 本当に良かった。
アーメン

子供

2012年12月17日 | 聖書、信仰
教会に集うママ達が僕なんぞの心配をしてくれます。(感謝の言葉も見つかりません)

「(就職するならば)保父がいいのでは? いま人材不足だから資格を有していなくてもなれるみたいですよ」

何故に「保父」を薦めてくれるかと申しますと、僕が教会でいつも子供たちに遊んでもらっているからでしょう。
僕は子供が好きです。
子供だって人間だから心の中に悪い面も持ち合わせており、決して純粋ではありません。
けれど、大人に比べるとやはり純度は数倍勝ると思っています。


僕が子供と遊んでいるときに心に去来するのは大愚・良寛です。世に言われる「りょうかんさん」です。
彼は子供達を愛し積極的に遊んだことで有名です。 「子供の純真な心こそが誠の仏の心」
かくれんぼや手毬で遊ぶ姿こそ良寛の姿でした。
禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、また最期を看取った弟子の貞心尼に対してほのかな恋心を抱いていたといわれています。

良寛を知るならば故・立松和平の「良寛」がお薦めです。(筆者が執筆途中で亡くなったのが惜しまれる上出来の小説です)
また、前述の貞心尼を主人公とした瀬戸内寂聴の小説「手毬」も薦めたいですね。(しかし出来はあまり・・・苦笑)


子供の良いところは純粋であるだけでなく、大人の虚栄や欺瞞を見事に看破するところです。
「子供好きと周囲に思われたい・・」などというヨコシマな心で接していると、ちゃ~んとそれを見抜きますよ。

だから僕は子供に遊んでもらうときは、ほぼ無心、大人心を捨てて自分も子供になる・・童心に戻るようにしています。
もともとが僕は、自分で言うことじゃ無いとは思いますが、本質が子供のままなので。
(これは数少ない僕の美点のひとつですが、同時に大いなる、深刻な欠点でもあるのです)

僕はたまに誤解をされますが、基本的には子供が中学生になるまでは「ある程度」甘やかし、愛情を傾けるべきだとの考えです。

「習い事」は、本人が「やりたい」と言えばやらせ、その場合にサボる風であればきつめに叱るべきだと思ってます。
しかし、親のエゴを満たすために嫌がる子供を押さえつけて「強要」するのは断固反対です。
以前、好きなブロガーの主婦の方にはうまく説明が出来ず叱られてしまいました。

また、こういう考えも持っています。

例えば、僕の実際の兄の子供(女の子二人)は英会話を習っていますが、これも「やりよう」だと考えます。
もしも彼女たちが英会話を習得したものの肝心の日本語がおぼつかない状態で成人をしたならば、これは悲劇だと考えます。
僕が神戸に転勤してるとき、土地柄でしょう英語を話す若者が街にたくさんいましたが、彼らの日本語は小学生並みでした。

それじゃあ意味がない。 かえって間違いだと心から思うのです。
英語が70点、日本語が50点になるならば英会話などやめて、英語20点、だけど日本語が80点の子供を良しと考えます。

人間が教育を受けるその理由で大事なのは言語そのものなのではなく、その人間性を育てることなのですからね。

カタい話はこれまでとして・・・・・(笑)

教会にはトイレにもまだ行けない幼児もいますので、僕としては「おしめの交換」を覚えなければ・・と考えています。
基本的には両親の仕事だと思うけれど、教会内においてはみな「家族」だと思ってますので僕もやれなければ!

どうやるかを今度教わろうと思ってます。

アーメン

大きな人間

2012年12月13日 | 聖書、信仰
わーーーーい

このテンプレートすっっごく好みです、ヤッター
クリスマス用のだけど、今後はずーーーっとコレでいっちゃおうかな~・・・

さてさて、先週に風邪をひきまして仕事も休んで寝ておりましたよ
おかげでだいぶ良くなりました、よかったよかったよかったヨ

昔から体を鍛えるのが好きで(虚弱ッキーでしたから)今では歳の割には体力があるとは思うのですが、
40歳を過ぎてからはやっぱりきちんと休養を採らないと駄目ですね~~

くやしいけれど今後はその点を注意していきたいと思いました。 反省反省

僕は、もともとの性格なんでしょうね、どーーーーしても負けず嫌いといいますか・・・
「君には無理」「どうせ出来ないでしょ」みたいな顔をされると、もう、ムキになって頑張っちゃうんです・・・
子供・・・なんですね、きっと・・・

こんな歳(43歳)にもなって、心のどこかで、「若い奴らに喧嘩で負けたくない・・!」っていう意識がありまして・・・
「健康のため・・・」なんて周囲には言ってましたが、本当はそんなチャチな気持ちでトレーニングをしてたんです。

「男は最低限、愛する者を守れるだけの体力が無ければ駄目だ!」とか、
「文明の利器におぼれて人間本来の身体能力を退化させるのは愚か!」とか、

そんなこと言ってるのだけど、心の底を開けてみればなんのことはない、

「喧嘩に負けたくねえ!!」

ただそれだけ、トホホのホ。。。。

さすがにもう、こーーゆーー幼い考え方を改める時期にきている感じがします。
もっと大きな人間になりたい・・・のです。

喧嘩に負けてもいいじゃないか、いやさ、喧嘩なんてしなければいいじゃないか。
できるかな、自分??!

・・・・・・・・・・・・。
アーメン

2012年11月08日 | 聖書、信仰
先日、朝、外が濃い霧につつまれました。



真っ白な世の中を描いた映画としては思い出せるものは『ミスト』か。
『ホワイト・ブラインド』なんてのもあった気がします。

この朝、(もしもこのまま世の中が真っ白に包まれたままだったら・・・)

と空想せずにはいられませんでした。

青空のない世界。
光の遠い世界。

たぶん人類は病んでしまうでしょう。

古代宗教の信仰対象の多くが「太陽」だったのには納得できます。
古代人のほうが現代人よりも太陽のありがたみは解っていたでしょうね。

あとは「雷」。
古代人にとってカミナリの音、光・・・・・・
しかも現代のようにコンクリートで密閉された屋内ではなく、ほとんど野外と変わらぬ屋内です。
どれほどの脅威だったでしょう。
まさに自然の神なる力。その象徴ですね。

昔の人のほうが、神様を肌で感じ、信じられたことでしょう。

現代人は科学の進歩を得て、信仰を失いました。

僕が宗教に目覚めたのが30代になってから。
キリスト教への入信がなんと今年、なんと42歳になってから。

僕の場合、古代人と違い、頭で考えて考えてのち信仰を得ましたので、
動機がその分不純かもしれません。
神なる力を肌で感じたわけでなく、頭で理解したのですから。

宗教に目覚めてからキリスト教に入信するまで、じつに10年の歳月が必要でした。

何故か?

答えは簡単。 宗教戦争への疑問・疑念が解けなかったからです。
クリスチャン=人殺しじゃないか、と。

今はある程度その問題は(自分の中では)解決しています。
だから信仰を得られたのです。

おっとっと。 話がそれた。
今日はこれくらいで。
アーメン

美しくも恐ろしいGOBLINの音楽が好き


幻想

2012年09月26日 | 聖書、信仰
俺は、自分が駄目人間なものだから、嫌われ者や駄目人間はむしろ仲間だと思ってしまうところがある。
「自転車あさひ」にこだわってしまったのもそうで、何度裏切られても、
また、例の「直感」が「この店はおよしなさい」と信号を送ってきても、
「いやいや、今度こそは・・」
「いつかは彼らも変わるハズ・・」
・・・などと、ついついずるずると期待を抱いてしまう。
でも結局その期待は単なる「幻想なのだ」ということを思い知らされる。

今日、何回もパンクした愛車の後輪は「取替え」が必要だと、ついに観念した。
そこで何度も嫌な思いをしたけれど多少愛着の残る「自転車あさひ」に行こうかどうか相当に迷った。
俺の中でまたぞろ例の幻想が頭をもたげる・・・・
「あれほど激怒したんだから今度こそ・・」
でも、タイヤ交換となると少なくとも6千円はかかるのだ。
失敗は許されない!(んな大袈裟な) 
で、悩んだ。
考えた。
直感は「やめておけ」だ。

思案のあげく、とうとう他の、初めて入る店に行った。
結果・・・・・・

大正解!!
すんごく感じ、雰囲気の良い店で、店員さんの対応も素晴らしく、かつ安価で済んだ

こちらの「お金が無くて・・。安く済ませたいのですが・・」という要望に、

「自転車あさひ」は一瞬厭な顔をしたもんだ(本当の話なんです!)

しかーーし! 新しい店は「はい。ではこちらの商品はいかがでしょうか?
これ、当り前なのだけど、なんか今回はすっごく感動したよ!

修理後のアフターケア、チェーンに油を挿すのも当然のようにやってくれた。

俺もしつこいけど、「自転車あさひ」は「400円かかります!」

も~~う二度と行くもんかい!!


ちなみにこの「幻想」、最初に言った通り、俺はよく人間に対して抱いてしまう
きっと良いところもある人なんだ。
こっちが信頼を寄せればきっと通じて仲良くできるはずだ。

・・・・・これも、やっぱり大半(全てではない)が「幻想」なのよね。
今日、ひとつの幻想に見切りをつけた。
こっちも、も~~う二度と行くもんかい!!