スワローで出かけた先は『アウトランド小国郷』
私にとっては、どこよりも思い入れが深いオートキャンプ場なのだ。
そのキャンプ場から、唐突に閉鎖の知らせが届いたのは、つい最近の事だ。
私が30代半ばの頃、整備工場を経営する事の不安を感じていた。
このままでいいのだろうか?
今はやっていけても、何かしなくては、必ず将来はジリ貧になる。
そういう思いが強かった。
その頃出会ったのが、キャンピングカーだった。
これを、会社の事業の一部門とするのは、それなりの勇気が要ったが、とにかくやってみる事にした。
幸い、本業の整備工場の業績など、はるかに上回る大きな柱となってくれた。
と言う訳で、好きが高じてこの事業を始めたのではなく、単にその将来性に期待しただけであった事を、ここで白状せねばならぬ。
当然私は、オートキャンプの経験など露ほどもない。
販売に携わる以上、この遊びを語れるようにならないと、そもそも話にならないじゃないか。
と言う事で、
キャンピングカー事業を始めた当初、オートキャンプと言うものに、初めて触れたのがここだったのだ。
全てはここで始まった。
「星が降る」という表現を実感したのも、ここだった。
焚火の炎に魅入られたのも、野外で飲む酒がこんなにも旨いと知ったのも、ここが始まりだった。
サイトは全てフリー。
直火もOKのゆるーい規則も魅力だった。
いくつかのロッジと、民宿もこの敷地内で営まれていた。
このキャンプ場を、ほぼ一人で作り上げたオーナーが亡くなって、ずいぶん経つ。
オーナーが亡くなってからは、奥さんが女手一つでキャンプ場と民宿を切り盛りしてきた。
キャンプサイトから、この坂を上った少し先に管理棟がある。
かつて、現在の管理棟が出来る前、この坂を上った右手に、小さなプレハブの管理棟があった。
オーナーは、いつもそのプレハブの前で焚火をしながら、焼酎を口に運び、人懐っこい笑顔で、
「今、究極のシチューを作っとります。」
とか、
「今、究極のコーヒーを煎れとります。」
なんて話しかけてくれたっけ。
民宿を兼ねた管理棟。
このキャンプ場の一番の魅力は、何と言っても24時間いつでも入れる温泉だ。
男湯はひこ星、女湯はおり姫と名付けられ、一年に一度七夕の日は真ん中の仕切りが取り払われ、混浴になる。
残念ながら、ついに一度もその機会を得られないまま、最後の日を迎えてしまった。
この日の客は、私たち以外は男連れの一組だけであった。
よって、女と呼べるのは家内1人だけであったが、何故か女湯の方だけに湯が張られていた。
ついに、
ついに、
最後の最後に、女湯を覗くと言う機会は得ることが出来たのは、せめてもの僥倖と言わねばならぬ。
男性諸君。
これがその秘密の花園である。
って、それがどうした!と言う話ではあるが・・・
キャンプ場周辺も思い出は尽きない。
小田温泉街の一番端っこに位置し、ここから歩いて少し行くと民宿が建ち並ぶ通りに出る。
このあぜ道で、家族皆でヨモギを摘んだのも、昨日の事のように思いだされる。
この川では、まだ幼かった娘達を遊ばせたものだ。
子供たちは、休日の遊びと言えばキャンプであった。
ホテルや旅館を利用して旅行に連れて行ったことなど、ほとんど無い。
娘達には内緒だが、実は、
・・・・少々悪かったと思っている。
キャンプ場に戻る。
下に見えるのは炊事棟。
ロッジの手前には小さな池がある。
そう言えば、昔はここで魚が自由に釣れたものだが、最近は釣り人を見かけない。
今も居るのだろうか?
今回は下の広いフリーサイトではなく、一番上の段に車を停めた。
26年程、このキャンプ場に来ているが、実はこの場所は初めてだ。
時間は2時前だが、なにはともあれ、こうなる。
何か問題でも?
宵闇が迫る頃には焚火点火。
いつもなら、この時間はへべれけになっている筈だが、何故かほとんど酔っていない。
何しろタイマー撮影が出来てるくらいだから。
ここでの思い出を語る事は、私たち二人のここ20数年の来し方を語るのと同じなのだ。
あんまりしんみりとすると、人間酔えないものらしい。
翌朝早朝、朝風呂に入る。
私のふくらはぎを堪能していただきたい。
帰り際、奥さんに最後の挨拶。
「20数年、本当に長い間お世話になりました。思い出が尽きないよ。」
「本当にありがとうございました。でもここが引き際と思って・・・」
土地ごと売却したと言う。
新しい経営者は全てを取り壊し、この場所を大きな宿泊施設にするとの事。
私達の思い出は、完全に潰え去る。
これからは、自分の母親や孫たちの世話など、この商売をして来て一度だって出来なかった事をしたいとの事。
そうだね。それがいいよ。
じゃあ、名残は尽きないけど・・・またね。