御言葉
2009-08-23 | 日記
不確かな記憶による穴ぼこ要約
葡萄園の主人の本意は?
要約の前に、きのうのおさらい
葡萄園の主人の支払い方について、先に来ている労働者から不満が出たとき、主人は、次のように語られました。
「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」
このように、後にいるものが先になり、先にいるものが後になる。
さて、ここから今日の説教のお話ですが、
今日の箇所で一番ポイントとなることばは次の一句です。
「わたしの気前のよさをねたむのか」
「気前のよさ」とは原語で、→「わたしの善さ」
「ねたむ」とは、→「目が暗く、よく見えない」
という意味だそうです。
つまり、「目の暗いあなた方人間には神様のやり方が善きものに見えないのか」という意味。
次に、広場に5時に主人が行った時、そこにいた人との会話はこうです。
主人:「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」
人: 「誰も雇ってくれないのです」
主人:「あなたたちも早く葡萄園に行きなさい」
この人は、怠けていたわけではなく、誰にも雇ってもらえない人たちでした。
言い換えれば、神の救いから漏れていると考えられていた、当時のユダヤ社会において蔑まれるべき人々、遊女や収税人、そして異邦人たち。
その人たちを憐れみ、主人は自らの葡萄園に働き手として雇い入れ、先に雇われていた人たちと同じように報酬を与えたのである。
というお話でした。
以上、穴ぼこ要約おわり。
ところで、
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という謎のことばに関しては、今日は特に講解はなかったので、また次回先生に質問してみますね。
それで、ここからはわたしの解釈ですが、「先にいる者」と「後にいる者」とは、ユダヤのエリート集団、ファリサイ人(ファリサイとは「分離する」という意味)と、一番下位にいる異邦人や収税人・遊女たちとのことを、対比して書かれているのではないかなと思いました。
なぜならこのあたりから、イエス様とファリサイ人の論争が激しくなり、命を狙われる記述が出てくるからです。
「神様のやりかたと考え方は、人間のそれとはちがう」という記述は、聖書には
ところどころに出てきます。この箇所は、それが鮮やかに出ているところだと思いました。
「神様はくらべたりしないから安心なんだよね」というボウさんのことばですが、
人間は神の前では、すべて罪人であるという意味で、誰もが神の前に平等なのだから、そういう点で、くらべる事は、人間にとっても、神にとっても不可能なのではないでしょうか。
律法を守り倒して、罪が消えるかというと、もともと律法を行う人間が罪ある存在なので、どんどん自己矛盾に陥っていく、わたしたちは悲しい性ですね・・・
だからもうおゆだねするほかありませんわ、まったく。
葡萄園の主人の本意は?
要約の前に、きのうのおさらい
葡萄園の主人の支払い方について、先に来ている労働者から不満が出たとき、主人は、次のように語られました。
「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」
このように、後にいるものが先になり、先にいるものが後になる。
さて、ここから今日の説教のお話ですが、
今日の箇所で一番ポイントとなることばは次の一句です。
「わたしの気前のよさをねたむのか」
「気前のよさ」とは原語で、→「わたしの善さ」
「ねたむ」とは、→「目が暗く、よく見えない」
という意味だそうです。
つまり、「目の暗いあなた方人間には神様のやり方が善きものに見えないのか」という意味。
次に、広場に5時に主人が行った時、そこにいた人との会話はこうです。
主人:「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」
人: 「誰も雇ってくれないのです」
主人:「あなたたちも早く葡萄園に行きなさい」
この人は、怠けていたわけではなく、誰にも雇ってもらえない人たちでした。
言い換えれば、神の救いから漏れていると考えられていた、当時のユダヤ社会において蔑まれるべき人々、遊女や収税人、そして異邦人たち。
その人たちを憐れみ、主人は自らの葡萄園に働き手として雇い入れ、先に雇われていた人たちと同じように報酬を与えたのである。
というお話でした。
以上、穴ぼこ要約おわり。
ところで、
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という謎のことばに関しては、今日は特に講解はなかったので、また次回先生に質問してみますね。
それで、ここからはわたしの解釈ですが、「先にいる者」と「後にいる者」とは、ユダヤのエリート集団、ファリサイ人(ファリサイとは「分離する」という意味)と、一番下位にいる異邦人や収税人・遊女たちとのことを、対比して書かれているのではないかなと思いました。
なぜならこのあたりから、イエス様とファリサイ人の論争が激しくなり、命を狙われる記述が出てくるからです。
「神様のやりかたと考え方は、人間のそれとはちがう」という記述は、聖書には
ところどころに出てきます。この箇所は、それが鮮やかに出ているところだと思いました。
「神様はくらべたりしないから安心なんだよね」というボウさんのことばですが、
人間は神の前では、すべて罪人であるという意味で、誰もが神の前に平等なのだから、そういう点で、くらべる事は、人間にとっても、神にとっても不可能なのではないでしょうか。
律法を守り倒して、罪が消えるかというと、もともと律法を行う人間が罪ある存在なので、どんどん自己矛盾に陥っていく、わたしたちは悲しい性ですね・・・
だからもうおゆだねするほかありませんわ、まったく。
神様の前には 誰もが大切な人なのにね。
昨日も仕事で かなり落ち込みました。
気をとりなおして、今日一日、ですねー
昔、わたしの母が考え出した「わが子を天才児にする」方法は、近所の母の親友の子供で、よく勉強のできるお兄さんの家で、机を並べて一緒に勉強させる、すると、その子の頭のよさが家の子にも移るのでは?と思ったらしいですが、わたしはすぐに勉強に飽きて、裏の小学校の校庭で、一緒にブランコに乗りに行ったり、駄菓子屋に連れて行ったりしたので、1,2回でその目論見は挫折したようです。
やっぱり人とくらべるのには、ボウさんも個性がありすぎるので、わが道を進んでくださいね。