ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

船王 眉山

2020-08-21 | 日記
眉(まよ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊り知らずも

船王 (ふねのおおきみ ふなおう)

  眉のような形の山が雲の間から見える 阿波の山 めがけて漕ぎ行く舟に停泊する港もない

すだちの箱の中に入っていた紙にあった歌。

万葉集の中の一首で、船王(ふねのおおきみ、もしくはふなおう)という人の歌だそうです。この人は、女帝・孝謙天皇から、次の天皇にふさわしくないとして、弟の大炊王に天皇の位を譲らされた人ということです。理由は「閨房の乱れあり」。女性関係が乱れていたから。
「眉山」という名前は、この歌の後、誰かが言い出して、そのように呼ばれるようになったとのこと。それまでは、土地の名前を適当ににつけた地味な名前の山だったそうです。船王が直接のネーミング作者ではないにしろ、そのきっかけを作った人だといってもいいでしょう。

この歌は、弟の大炊王に伴って難波宮に赴く時の歌だということなので、眉山を背にして、紀伊水道を船で和歌山経由で大坂に向かうところでしょうか。しかし「懸けて漕ぐ舟」つまり、めがけて漕ぐ舟ということは、難波宮からの帰り道とも詠めます。この場合は阿波の山を正面に見ています。
正統派の詠み方に従って、「眉のごと雲井に見ゆる阿波の山」でいったん切って詠めば、やはり眉山を背にして(難波宮に向かって)漕ぎ出す歌とも詠めます。真偽のほどは、作者に聞いてみないとわかりませんが、「いや~、どっちだっていいよ。そんなこと。山の形が女の人のきれいな眉みたいだと言いたかっただけ」と言うかもしれません。
船王は新羅「征伐」のため、500艘もの船を調達する命を受けた人らしいです。最後は政変に巻き込まれ、隠岐の島へ島流しされました。下句から、王子とはいえ、その身はどうなるものかわからない、という心が読みとれるというのが、本に載っていた解釈です。

数年前、南海電車の難波から和歌山港に行き、南海フェリーに乗り換え、徳島港に着く という旅が、格安片道2000円ぐらいでありました。今もやっているかどうかわかりませんが、1度乗ったことがあります。家からだと、私鉄に乗って、近鉄に乗って、南海電車に乗ってフェリーに乗って短い船旅を楽しんで、降りたら子供の車が出迎えてくれる、というちょっとした旅気分が味わえました。
フェリーでは、徳島に近づく時も離れる時も、眉山が目印です。今では当たり前に眉山と呼んでいますが、確かにまゆやまといわれるだけあって、優しい稜線の優美な形の緑の山が見えると、心が和みます。

船王の文学上の功績は、歌の後半より、上句の山の形を眉にたとえた比喩にあるといったら乱暴でしょうか。下句は、別にどうでもいいといっては何ですが、同じような発想の歌が、他にも沢山合ったような気がします。今なら流行のフレーズをちょっとつけてみたってぐらいかな。
あ、それから難波宮は今の難波かと思って調べてみたら、大阪城の南西の角、地下鉄では森ノ宮が近いそうです。そこに難波宮跡地の公園もできているようです。