よどんだ川からフツフツと浮かび上がる泡が、あるとき殺意にかわってしまった話。
詳しいあらすじは省略。あらすじよりも映画に漂う空気が決めての映画。
アメリカの小さな町の、暗い人形工場と、そこで働く人の家と、朝ごはんのドーナツハウスと夜のバーぐらいしか出てこない。
出てくる皆さん、朝はいつもドーナツで、昼はいつもマック。夜はさて何だったかと思い出すと、中年女のマーサは介護する老いた父と一緒に一皿盛りの料理を食べていたけど、母親とトレーラーハウスで暮らす20代のカイルは「済ませてきた」と言っていたし、シングルマザーの娘の夜食はクラッカーとミルクだった。
彼らの話す英語は、口の中でボソボソ、モジョモジョしていて、まったくやりきれない空気が漂っている。ただ人形工場で型から人形の頭を取り出したり、顔に目を入れたりするときは、かなりの力でウッという声が聞こえそうなくらい圧力をかけないと、うまくいかない。マーサのかける圧力はかなりのものだ。それが最終で、とんでもないところに利用されるのだが。
工場では人形の顔が、足が、手が型から取り出され、それぞれに山に積まれ、そこにまつげをつけて、洋服を着せて、靴をはかせて、これらがすべて手作りで、薄暗い工場で、人の手によってなされる。
殺人者となるマーサは、よく考えれば、三人のうちでは、一番人助けをしている人だ。カイルに頼まれれば車を出してやり、ローズに頼まれれば子守をしてやり、家に帰れば要介護の父親の世話をしながらミシンの内職をし、それなのに誰も彼女に感謝するどころか、自分の用事に使うときだけ、関心を示す。娘の子守をしたローズの家で、ローズに前の夫が尋ねてきて修羅場になった後で、そのことをちょっと質問したら「あんたには関係ない!」と言われて、「私にはそのくらいのことを聞いてもいいわよね。子守をしたんだし」とうなだれるマーサ。その子守というのも、カイルとローズのデートのためだったのに、まったくこんなに足蹴にされて、殺意を抱かない人がいようか。
殺意を抱いたとしても、それを実際に行動に移すこととの間にはにまったく大きな隔たりがあるが、ふと、心に悪魔が入って、思わず工場でやっていたように、その首にぐっと力を入れてしまったことになったとしても、驚くには至らない。
誰か、マーサにもっと関心をもって話しかけていれば。マーサの父親もマーサが子守に行く、たった数時間も、「自分の世話はどうなるのか」と自分のことばかり心配せずに、マーサにたまには美容院にでも行っておいで、と声をかけていたら。
マーサの疲れがしみじみと自分の身にも沁みる。
主婦は、家族のことばかり考えてしていることが当然と思われて、あるときそれが空しくなることがあるのではないか。
マーサとローズがいなくなった工場では、カイルの失業中の母親が、こんどは人形工場の新しい従業員として入ることになる。人が1人死んでも、人が1人刑務所に入ることになっても、人形のように代わりは次々に生産されるかのように、映画はまた最初にもどっていく。
自分にだけ向いている関心を少しだけ人に向ければ、救われる事だってあるに違いない。余裕のないときこそそうしたい。たいしたことはしなくてもいいのだ。
いっしょにいてお茶を飲むとか。一緒に歩くとか。心をそこに向けていればお金をかけなくてもできることはある。
そうしなければ人類は滅びてしまうのではと思わせるぐらい怖い映画だった。
詳しいあらすじは省略。あらすじよりも映画に漂う空気が決めての映画。
アメリカの小さな町の、暗い人形工場と、そこで働く人の家と、朝ごはんのドーナツハウスと夜のバーぐらいしか出てこない。
出てくる皆さん、朝はいつもドーナツで、昼はいつもマック。夜はさて何だったかと思い出すと、中年女のマーサは介護する老いた父と一緒に一皿盛りの料理を食べていたけど、母親とトレーラーハウスで暮らす20代のカイルは「済ませてきた」と言っていたし、シングルマザーの娘の夜食はクラッカーとミルクだった。
彼らの話す英語は、口の中でボソボソ、モジョモジョしていて、まったくやりきれない空気が漂っている。ただ人形工場で型から人形の頭を取り出したり、顔に目を入れたりするときは、かなりの力でウッという声が聞こえそうなくらい圧力をかけないと、うまくいかない。マーサのかける圧力はかなりのものだ。それが最終で、とんでもないところに利用されるのだが。
工場では人形の顔が、足が、手が型から取り出され、それぞれに山に積まれ、そこにまつげをつけて、洋服を着せて、靴をはかせて、これらがすべて手作りで、薄暗い工場で、人の手によってなされる。
殺人者となるマーサは、よく考えれば、三人のうちでは、一番人助けをしている人だ。カイルに頼まれれば車を出してやり、ローズに頼まれれば子守をしてやり、家に帰れば要介護の父親の世話をしながらミシンの内職をし、それなのに誰も彼女に感謝するどころか、自分の用事に使うときだけ、関心を示す。娘の子守をしたローズの家で、ローズに前の夫が尋ねてきて修羅場になった後で、そのことをちょっと質問したら「あんたには関係ない!」と言われて、「私にはそのくらいのことを聞いてもいいわよね。子守をしたんだし」とうなだれるマーサ。その子守というのも、カイルとローズのデートのためだったのに、まったくこんなに足蹴にされて、殺意を抱かない人がいようか。
殺意を抱いたとしても、それを実際に行動に移すこととの間にはにまったく大きな隔たりがあるが、ふと、心に悪魔が入って、思わず工場でやっていたように、その首にぐっと力を入れてしまったことになったとしても、驚くには至らない。
誰か、マーサにもっと関心をもって話しかけていれば。マーサの父親もマーサが子守に行く、たった数時間も、「自分の世話はどうなるのか」と自分のことばかり心配せずに、マーサにたまには美容院にでも行っておいで、と声をかけていたら。
マーサの疲れがしみじみと自分の身にも沁みる。
主婦は、家族のことばかり考えてしていることが当然と思われて、あるときそれが空しくなることがあるのではないか。
マーサとローズがいなくなった工場では、カイルの失業中の母親が、こんどは人形工場の新しい従業員として入ることになる。人が1人死んでも、人が1人刑務所に入ることになっても、人形のように代わりは次々に生産されるかのように、映画はまた最初にもどっていく。
自分にだけ向いている関心を少しだけ人に向ければ、救われる事だってあるに違いない。余裕のないときこそそうしたい。たいしたことはしなくてもいいのだ。
いっしょにいてお茶を飲むとか。一緒に歩くとか。心をそこに向けていればお金をかけなくてもできることはある。
そうしなければ人類は滅びてしまうのではと思わせるぐらい怖い映画だった。