主人公が、きちんとした洋服のまま、ソファに横たわり、タバコをくゆらしながら、何時間も考え込んでいる映画を見ました。時には目をつぶって、寝ているのか考えているのかわからないことも。何度もその場面が出てくるので、ずいぶん休むことの多い人だなあと考えていたら、それは休んでいるのではなく、仕事をしていたのでした。
なるほど、哲学者というのはこういう風に仕事をするのか、とボンヤリの私は映画館を出てからハッと気がつきました。映画の題名は『ハンナ・アーレント』です。ぎっり観客が入っていて、桟敷席までありました。
ハンナ・アーレントは、自身もユダヤ人でありながら、戦後、イスラエルで行われたナチの軍人アイヒマンの裁判を傍聴してレポートを書いた人として有名です。アイヒマンは、まるで機械仕掛けの人形のように、感情をさしはさむことなく、次から次へユダヤ人を貨物に乗せて、収容所へ送り込んだ管理責任者です。
傍聴レポートで、アーレントが、「アイヒマンはただの凡庸な男に過ぎなかった」「ユダヤ人の族長もナチに加担したのは否めない」と書いたため、同胞から「ユダヤのくず女!」と激しい非難を浴びました。
映画では、大学から退職勧告されるところも出てきます。一方、彼女の授業はいつも満員で学生たちの熱気にあふれていました。授業の方法がユニークで、メモもノートもなく、机に座ってスーツ姿で脚を組み、時には生徒にことわりをいれ、タバコを吸いながら、たたみかけるように、また時にはゆっくり考えながら話すやり方です。学生が質問したらその都度、答えてまた授業が進められるます。
日本では大学院でもあまりやらない対話的方法。日本はもっともっと文字依存です。もしくは対話的なものがあるかもしれませんが、先生があらかじめ答えを頭の中に用意していて、それを学生が当て、当たったら、先生が「その通りですね」と言って、自分の思うように進めるやり方。これは面白くないです。誘導尋問的な質問に対して、誘導尋問的に答えるというのか。アーレントのやり方は、そのどちらとも違って、対話によって話がどっちに進むのかよくわからない緊張感がありました。
その授業のスタイルそのものが、アーレントが重視した人間の自由意志が生かされた授業ではないかと思いました。ただ、「自由意志」については映画では出てきませんが。
彼女は決して、アイヒマンを擁護したのでもなければ、ユダヤの族長を告発したのでもない、と映画で言っていました。
彼女が言いたかったのは、「考えを持たない人間の罪」ということだったようです。アイヒマンは、法廷で盛んに自己弁護します。「私は上からの命令に忠実に従っただけだ。私は何も悪いことはしていない」と。
映画の中でアーレントが投げかけた言葉を思い出します。
「アイヒマンのような罪は、ユダヤの法典には載っていない。これをユダヤ法では裁くことはできない」「自分で悪を認識できない人をどうやって裁くのか」
「考えない罪」というものを逆から言えば、「誰かの意見に無自覚に従う」ということかもしれません。アイヒマンは、一台の貨車に何人のユダヤ人を詰め込めば、一番効率的に収容所まで運べるかということを徹底的に考え抜いた人です。でもそれが人間としてどうなのか、というところまでは考えたこともない、考えないようにしていたのか、考えられなかったのか、そのほうが楽だったのか、なぜだかわかりませんが。
ハンナ・アーレントの博士論文は「アウグスティヌスの愛の概念」だそうです。
これを読んだら、「考えない罪」とは何かについて、もっとよく理解できるかもしれません。
聖書にでてくる人間の罪の筆頭は「嫉妬」で、これが原因となって、人類最初の尊属殺人といわれるカインによる弟アベルの殺人が引き起こされたわけですが、アーレントのいう罪とはそれよりももっと深い罪であり、自由意志を放棄することによる絶対悪について、聖書のどこかに書いてないか調べる必要があると思っています。
蛇足ですが、アーレントの服装は、そのまま今でも着られそうな素敵なものばかりです。ネックレスのつけかたも勉強になりました。
なるほど、哲学者というのはこういう風に仕事をするのか、とボンヤリの私は映画館を出てからハッと気がつきました。映画の題名は『ハンナ・アーレント』です。ぎっり観客が入っていて、桟敷席までありました。
ハンナ・アーレントは、自身もユダヤ人でありながら、戦後、イスラエルで行われたナチの軍人アイヒマンの裁判を傍聴してレポートを書いた人として有名です。アイヒマンは、まるで機械仕掛けの人形のように、感情をさしはさむことなく、次から次へユダヤ人を貨物に乗せて、収容所へ送り込んだ管理責任者です。
傍聴レポートで、アーレントが、「アイヒマンはただの凡庸な男に過ぎなかった」「ユダヤ人の族長もナチに加担したのは否めない」と書いたため、同胞から「ユダヤのくず女!」と激しい非難を浴びました。
映画では、大学から退職勧告されるところも出てきます。一方、彼女の授業はいつも満員で学生たちの熱気にあふれていました。授業の方法がユニークで、メモもノートもなく、机に座ってスーツ姿で脚を組み、時には生徒にことわりをいれ、タバコを吸いながら、たたみかけるように、また時にはゆっくり考えながら話すやり方です。学生が質問したらその都度、答えてまた授業が進められるます。
日本では大学院でもあまりやらない対話的方法。日本はもっともっと文字依存です。もしくは対話的なものがあるかもしれませんが、先生があらかじめ答えを頭の中に用意していて、それを学生が当て、当たったら、先生が「その通りですね」と言って、自分の思うように進めるやり方。これは面白くないです。誘導尋問的な質問に対して、誘導尋問的に答えるというのか。アーレントのやり方は、そのどちらとも違って、対話によって話がどっちに進むのかよくわからない緊張感がありました。
その授業のスタイルそのものが、アーレントが重視した人間の自由意志が生かされた授業ではないかと思いました。ただ、「自由意志」については映画では出てきませんが。
彼女は決して、アイヒマンを擁護したのでもなければ、ユダヤの族長を告発したのでもない、と映画で言っていました。
彼女が言いたかったのは、「考えを持たない人間の罪」ということだったようです。アイヒマンは、法廷で盛んに自己弁護します。「私は上からの命令に忠実に従っただけだ。私は何も悪いことはしていない」と。
映画の中でアーレントが投げかけた言葉を思い出します。
「アイヒマンのような罪は、ユダヤの法典には載っていない。これをユダヤ法では裁くことはできない」「自分で悪を認識できない人をどうやって裁くのか」
「考えない罪」というものを逆から言えば、「誰かの意見に無自覚に従う」ということかもしれません。アイヒマンは、一台の貨車に何人のユダヤ人を詰め込めば、一番効率的に収容所まで運べるかということを徹底的に考え抜いた人です。でもそれが人間としてどうなのか、というところまでは考えたこともない、考えないようにしていたのか、考えられなかったのか、そのほうが楽だったのか、なぜだかわかりませんが。
ハンナ・アーレントの博士論文は「アウグスティヌスの愛の概念」だそうです。
これを読んだら、「考えない罪」とは何かについて、もっとよく理解できるかもしれません。
聖書にでてくる人間の罪の筆頭は「嫉妬」で、これが原因となって、人類最初の尊属殺人といわれるカインによる弟アベルの殺人が引き起こされたわけですが、アーレントのいう罪とはそれよりももっと深い罪であり、自由意志を放棄することによる絶対悪について、聖書のどこかに書いてないか調べる必要があると思っています。
蛇足ですが、アーレントの服装は、そのまま今でも着られそうな素敵なものばかりです。ネックレスのつけかたも勉強になりました。