ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

ダイナマイト

2009-09-23 | 日記
十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われるものにとっては神の力です。それはこう書いてあるからです。

「わたしは知恵あるものの知恵を滅ぼし、
賢いものの賢さを意味のないものにする。」

 知恵ある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、戦況と言う愚かな手段によって信じるものを救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

                         コリントの信徒の手紙1 1章18-25節


「十字架のことば」とは、ディナミス、後の「ダイナマイト」の語源にもなった言葉だそうです。言い換えれば福音です。

言葉を扱う仕事をしています。小さい頃から言葉に関する仕事をしたいとずっと思ってきました。今までに主に3種類の仕事をしましたが、どれも言葉に深く根ざす仕事です。しかし、言葉と人間の関係をいまだに見極めることはできません。

日本語でも英語でもたくさんの本を読み、頭にたくさんの知識を詰め込んで、亡くなってしまった人の、これまでの読書でえた言葉は、死んだらいったいどこに消えるのでしょうか。
あれほどたくさんの本を次々に読破して、聞かせてくれた人の言葉はもちろん私の中に残っていますが、それはほんの一部で、彼女の読んだおびただしい言葉と、それによって得た知識は死んだ後、どこにいってしまったのでしょうか。

最近、ふとそんなことを考えます。ひょっとしたら、私の中に残すために、次々に読んだ本の話をしてくれたのでしょうか。
私は聞くばかりで、ダイナマイトのような破壊力をもつ福音をきちんとのべつたえていたでしょうか。

いつまでも引きずってはいけないとは思いつつ、いつもそのことと、いっしょに十字架の言葉が思い出されます。
しかし、そんなに早く忘れたくないのです。辛い時には暗い顔をしているのが健康の証拠ですから、これからもメソメソします。