横浜で見たいと思ったが、時間切れであきらめた『海炭市叙景』が、職場近くの映画館にかかっていた。
仕事が終わってから一人で見た。
映画館の暖かい椅子にどっしりと座ったら、これまでの仕事のざわめきと疲れが一気に出て、いつしか眠ってしまったようだ。気がつけば、画面は雪が降りしきる街の中を走る市電の中、日本語とロシア語と英語の車内放送がかかって、くたびれた感じの男や女が乗ったり降りたりする場面だった。
私がこの映画に興味を持ったのは題名なのである。なんて素敵な響き!と今年初めて伊勢佐木J&Bで映画のパネルをみて、心がときめいた。
「海炭市叙景」
海があって炭鉱があって、市とあるからにはある程度の人数の人達が暮らす街。どこなのだろう。
叙景という言葉を私は普段まったく使うことはないが、辞書で引くと、「風景を書き表すこと」とある。
叙景詩という言葉なら知っている。
映画も点描のように、街の人々のくらしを叙景詩のように描いていくオムニバス形式の作品だった。
映画を見て、思い出したのはジョイスの『ダブリン市民』である。しかしダブリン市民より画面が暗い。圧倒的に暗い印象がある。廃鉱になって、行き場を失った人たちが、今のくらしにギクシャクしたものを感じて、帰っていくのはかつてのにぎやかな美しい思い出である。しかしその回顧の行き着く先が、この世にはないようなところに思えてならない。それがどこなのか、わからないが、甘い回顧調の映画ではないことは、画面を一瞬でもみればすぐわかる。
41歳で自殺した原作者、佐藤泰志の同名小説は、読んでいるとまったく『ダブリン市民』と見間違うばかりの手法で書かれてあって、これはジョイスを意識していたなと私は確信する。しかし小説の方は、映画ほど読後感が暗くないのだ。
非常に簡潔で美しい文章。乾いた印象さえ与える。
映画と原作とどちらがいいのかよくわからない。映画のあの暗さも、ひたっていたい気がする。
でも私が映画にするなら、もっと乾いた、ハードボイルド風にすると思う。
もう一度しっかり眠らずに見てこようと思っている。加瀬亮にもまた騙されたし。全然わからなかった、彼だったなんて。
仕事が終わってから一人で見た。
映画館の暖かい椅子にどっしりと座ったら、これまでの仕事のざわめきと疲れが一気に出て、いつしか眠ってしまったようだ。気がつけば、画面は雪が降りしきる街の中を走る市電の中、日本語とロシア語と英語の車内放送がかかって、くたびれた感じの男や女が乗ったり降りたりする場面だった。
私がこの映画に興味を持ったのは題名なのである。なんて素敵な響き!と今年初めて伊勢佐木J&Bで映画のパネルをみて、心がときめいた。
「海炭市叙景」
海があって炭鉱があって、市とあるからにはある程度の人数の人達が暮らす街。どこなのだろう。
叙景という言葉を私は普段まったく使うことはないが、辞書で引くと、「風景を書き表すこと」とある。
叙景詩という言葉なら知っている。
映画も点描のように、街の人々のくらしを叙景詩のように描いていくオムニバス形式の作品だった。
映画を見て、思い出したのはジョイスの『ダブリン市民』である。しかしダブリン市民より画面が暗い。圧倒的に暗い印象がある。廃鉱になって、行き場を失った人たちが、今のくらしにギクシャクしたものを感じて、帰っていくのはかつてのにぎやかな美しい思い出である。しかしその回顧の行き着く先が、この世にはないようなところに思えてならない。それがどこなのか、わからないが、甘い回顧調の映画ではないことは、画面を一瞬でもみればすぐわかる。
41歳で自殺した原作者、佐藤泰志の同名小説は、読んでいるとまったく『ダブリン市民』と見間違うばかりの手法で書かれてあって、これはジョイスを意識していたなと私は確信する。しかし小説の方は、映画ほど読後感が暗くないのだ。
非常に簡潔で美しい文章。乾いた印象さえ与える。
映画と原作とどちらがいいのかよくわからない。映画のあの暗さも、ひたっていたい気がする。
でも私が映画にするなら、もっと乾いた、ハードボイルド風にすると思う。
もう一度しっかり眠らずに見てこようと思っている。加瀬亮にもまた騙されたし。全然わからなかった、彼だったなんて。