先週は放蕩息子の話を聞きました。ルカによる福音書15章です。
ある男に二人の息子がおりました。弟の方は、父親にさっさと自分の遺産の分け前をもらって、放蕩の旅に出かけましたが、飢饉に見舞われ、豚の世話をしながら自分も豚のえさの豆を食べる生活に陥りました。あまりの苦しさに、もう一度、父の家に帰って、自分の罪をゆるしてもらおう、父の家の僕として雇ってもらおうと考え、ふるさとに帰ってきました。家が近づくと、父親はいちはやく息子の姿を見つけ、自分からかけより抱擁し、首を抱き接吻しました。息子が、これまでの悔い改めを言うか言わないうちに、父親は、召使に命じて、息子に一番良い着物を着せるように、また指輪をはめるように言い、牛をほふって宴会を開くようにさせました。
一方兄の方は、畑仕事から帰ってくる途中、家の近くから音楽やざわめきを聞き、召使から、長いこと放蕩していた弟が帰ってきたことを聞かされました。父親が弟のために牛を一匹ほふって、その帰還を喜び祝っているのを知り、兄は怒って家に入ろうとはしませんでした。父は、兄息子をなだめるために外に出てきますが、兄は「私はいつもお父さんの言いつけを守ってやってきたのに、私が友達と宴会をするときには羊一匹さえほふってくださらなかった」と言います。父は「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、あの弟は死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった。喜ぶのは当たり前のことではないか」と言いました。
この話を聞いている人たちは、①イエスの弟子たち②当時、忌み嫌われていた徴税人や罪人と呼ばれる人たち③当時のユダヤの指導者であったパリサイ人や律法学者たち、だそうです。弟は②、そして兄は③にたとえてよむこともできるという話でした。
兄が弟を呼ぶとき、父にむかって「あなたのあの息子」といい、父が兄の前で弟を呼ぶとき「お前のあの弟」といいます。説教の中で「兄は、まじめにやってきたが、これまで一度も父とも、弟とも恵みの交わりをしたことがないのかもしれない、」という話が印象的でした。
恵みのない信仰生活ほどむなしいものはない、とも言われました。
放蕩息子より、兄の罪の暗さに驚かされます。またそのような病んだ兄に対しても、父は怒ったりせず、なだめるのだと思い至りました。
放蕩息子の罪に注目しがちですが、兄の病んだ姿に、人間の生まれながらの病みを感じます。嫉妬、憎しみ、殺人にいたる病みをとどめることのできるのも、神様だと思います.
もし、兄が「自分もたまには友達と宴会して、騒ぎたいから羊をほふってもいいですか」とお父さんにきいたら、きっと父は喜んでほふってくれたと、私は思うのです。少なくとも頭ごなしに、だめとは言わずに、なぜそうしたいのか、と聞いてくれたはずです。
兄は何故そうしないのでしょう。そういうことを言うと、父が怒ると考えるからなのか。父を信頼していないからか。そんな贅沢をする自分を自分で許せないからなのか。
いろいろ考えが頭をよぎります。
ある男に二人の息子がおりました。弟の方は、父親にさっさと自分の遺産の分け前をもらって、放蕩の旅に出かけましたが、飢饉に見舞われ、豚の世話をしながら自分も豚のえさの豆を食べる生活に陥りました。あまりの苦しさに、もう一度、父の家に帰って、自分の罪をゆるしてもらおう、父の家の僕として雇ってもらおうと考え、ふるさとに帰ってきました。家が近づくと、父親はいちはやく息子の姿を見つけ、自分からかけより抱擁し、首を抱き接吻しました。息子が、これまでの悔い改めを言うか言わないうちに、父親は、召使に命じて、息子に一番良い着物を着せるように、また指輪をはめるように言い、牛をほふって宴会を開くようにさせました。
一方兄の方は、畑仕事から帰ってくる途中、家の近くから音楽やざわめきを聞き、召使から、長いこと放蕩していた弟が帰ってきたことを聞かされました。父親が弟のために牛を一匹ほふって、その帰還を喜び祝っているのを知り、兄は怒って家に入ろうとはしませんでした。父は、兄息子をなだめるために外に出てきますが、兄は「私はいつもお父さんの言いつけを守ってやってきたのに、私が友達と宴会をするときには羊一匹さえほふってくださらなかった」と言います。父は「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、あの弟は死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった。喜ぶのは当たり前のことではないか」と言いました。
この話を聞いている人たちは、①イエスの弟子たち②当時、忌み嫌われていた徴税人や罪人と呼ばれる人たち③当時のユダヤの指導者であったパリサイ人や律法学者たち、だそうです。弟は②、そして兄は③にたとえてよむこともできるという話でした。
兄が弟を呼ぶとき、父にむかって「あなたのあの息子」といい、父が兄の前で弟を呼ぶとき「お前のあの弟」といいます。説教の中で「兄は、まじめにやってきたが、これまで一度も父とも、弟とも恵みの交わりをしたことがないのかもしれない、」という話が印象的でした。
恵みのない信仰生活ほどむなしいものはない、とも言われました。
放蕩息子より、兄の罪の暗さに驚かされます。またそのような病んだ兄に対しても、父は怒ったりせず、なだめるのだと思い至りました。
放蕩息子の罪に注目しがちですが、兄の病んだ姿に、人間の生まれながらの病みを感じます。嫉妬、憎しみ、殺人にいたる病みをとどめることのできるのも、神様だと思います.
もし、兄が「自分もたまには友達と宴会して、騒ぎたいから羊をほふってもいいですか」とお父さんにきいたら、きっと父は喜んでほふってくれたと、私は思うのです。少なくとも頭ごなしに、だめとは言わずに、なぜそうしたいのか、と聞いてくれたはずです。
兄は何故そうしないのでしょう。そういうことを言うと、父が怒ると考えるからなのか。父を信頼していないからか。そんな贅沢をする自分を自分で許せないからなのか。
いろいろ考えが頭をよぎります。