ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

滅亡の日は寒い

2012-12-21 | 日記
昨日の正午少し前、6階のビルの窓から、異様な光景をみた。
見たことのないほどのカラスの大軍団が森から出てきて空を駆け巡ったのだ。
その間、1分間ぐらいか。
窓の下は、街でも有数の森が残る神宮である。
神宮の森にいたカラスが、いっせいに上空に飛び出し、空を駆け巡り、ひとしきり飛んだ後、またもとの鞘におさまるかのように、姿が見えなくなった。

その出来事の前に、伏線となる出来事が起こっていた。
6階の部屋の上階の部屋から、机を引きずるような音が始まり、それも轟音のような音が続いたので「これはいったい何事か」とビルの管理の人に誰かが聞きに言ったら、まもなくその音はしなくなった。

単なる偶然である。
テレビでは、今日がマヤ文明が予告した地球最後の日であると言っている。

最近、『偶然性の問題』という本を読んでいる。
「あらゆる事象はゆくりないめぐり逢いであり、その邂逅の源泉に原始偶然が現存する」という九鬼周造という人がが1935年に書いた論文である。

自分がここに存在するのは、必然なのか、偶然なのか。

以下、引用。

「偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然か有ることを意味している。すなわち、存在が何らかの意味で自分に根拠をもっていることである。偶然とは偶々、然か有るかの意で、存在が自己のうちに充分の根拠をもっていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。換言すれば、偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。」

「ワシがストーブの前にいつも座っているのは偶々であって、どうしてもここにいたいというわけではないのである。どうしてもというなら、ストーブがある場所に、どうしてもワシがいなければならないということである。(ワシはストーブ以外の場所にも時々いるではないか・・・)
たまたま、ここに座っているだけであって、それはつまり、ストーブの存在がワシにとって、必然的に意味があるということではない。
偶々、ということはストーブが偶々そこにあるまでであって、そこに無かったらないでそれでよいのである。すなわちストーブが無かったらワシはそこに座らないのである。
言い換えれば、ストーブが偶々そこにあるということは、もし無かったらその前に座らないということと、切っても切り離せない問題なのであって、ストーブが有るからこそワシはそこに必ず座っているのである。このことこそが、有と無との接触面に介在する極限的存在である。」
   老猫 クロ嬢・訳 「ストーブの存在をめぐる偶然性と必然性について」


 猫といつもストーブを取り合いになるのでこんな句を作ってみた。

   ストーブと吾の間に猫がいる
   
        季語:ストーブ(冬)