吉本隆明氏の『フランシス子へ』というエッセイ集を読みました。表紙の猫の肉球の後が、薄墨で描かれていて、最初うちの猫が汚したのかと思いましたが、これも装丁の一部でした。
フランシス子さんという白猫は、別の本でも見たことがあります。ばななさんの本にも時折名前が出てくるので、私にとっては親しい猫です。また、前にうちで飼っていた白猫に顔つきがよく似ていたから覚えていました。
冒頭の部分から惹かれました。
「一匹の猫とひとりの人間が死ぬことを、どうちがうかっていうと、あんまり違わねいわいって感じがします。おんなじなあって。どっちも愛着した生と死ということに帰着してしまう」
フランシス子さんはばななさんが最初もらっってきた野良猫だったようです。吉本家に出入りする猫の中で、「そんなに美人でもないし、すばしっこいわけでもないし、いわく言いがたい平凡な猫」「おとなしいというより、鈍感で黙りこくった感じがする冴えたところのなんにもない、ぼんやりした猫」とも書いてあります。その猫の晩年を、自身も晩年だった吉本さんが看取った思い出が綴られています。たぶん口述筆記の文章ではないかと思われる話し言葉で淡々と続いていく文章を読んでいると、吉本氏がすぐそこにいて語りかけている感覚になります。
吉本氏は「うれしい」とか「かなしい」といった感情を子供の頃から表すのが鈍くて、フランシス子はその鈍さに一致して対応してくれた、その意味で自分の鏡のような存在だったそうです。この鏡のような存在を別の箇所では「うつし」だったと言っています。「うつし」というのは、合わせ鏡で自分を見たときのもうひとりの自分、猫がそこにいるってことは自分の「うつし」がそこにいるという感覚。
「僕は言葉をいうものを考えつくそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ「言葉」にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる」
そのほかにも「ホトトギスの会」という吉本氏ともうひとり友人の精神科医とで作っている会のことも書いてありました。ホトトギスという俳句や文学で詠われる鳥が、本当に文芸の中に詠われる様に存在するのかを、つきとめていく話です。文学の中における虚と実というテーマから発して、宗教家親鸞にまで話が及びます。親鸞ははなから皆が信じるもの、たとえばお経とか仏像とか、修行を疑って、そうかといって実証的にわかるところを信じたかというとそういうわけでもない。「人は死んだら浄土にいけるか」という自らが立てた大問題に対する答えを一生かけて追求した、それが親鸞の「ホトトギス」だと言っています。
さてフランシス子が死んでお骨にしてもらって、吉本氏は「フランシス子の気配とか感じるとか言うと、自分は別段そんなことはない、いないもんはいないんです」と言っています。でも忘れがたいと。それが好きってことでしょうかね、と。
最後に吉本氏はホトトギスの声を聞かせてもらいます。
はー、これがホトトギスの声なんだ。こんなにはっきり。すごいなあ。いやあ、はじめてだなあ。はじめて「いる」という感じを与えられた。
ちょっと呼びますか。
いや。向こうにうちの子どもともうひとり、いると思うので。
ちょっと呼んでもらって、もう一回聴きましょう。
さあ、みんな呼んで。みんな呼んで。
すごいなあ。いやあ、はじめてだなあ。
ホトトギスはいるんだね。
言葉と物について、一生考え続けてこられた人だったのだということがわかりました。
私も妙高高原でホトトギスの声を聴いたのです。でも簡単に俳句には出来ない。ホトトギスは何も考えずにそのまま詠んでくれればいいと言っているのはわかったけど。ホトトギスはそこにいるのだからそのまま詠めばいいんだと。
旅行から、帰ってきてそう思えるようになりました。
フランシス子さんという白猫は、別の本でも見たことがあります。ばななさんの本にも時折名前が出てくるので、私にとっては親しい猫です。また、前にうちで飼っていた白猫に顔つきがよく似ていたから覚えていました。
冒頭の部分から惹かれました。
「一匹の猫とひとりの人間が死ぬことを、どうちがうかっていうと、あんまり違わねいわいって感じがします。おんなじなあって。どっちも愛着した生と死ということに帰着してしまう」
フランシス子さんはばななさんが最初もらっってきた野良猫だったようです。吉本家に出入りする猫の中で、「そんなに美人でもないし、すばしっこいわけでもないし、いわく言いがたい平凡な猫」「おとなしいというより、鈍感で黙りこくった感じがする冴えたところのなんにもない、ぼんやりした猫」とも書いてあります。その猫の晩年を、自身も晩年だった吉本さんが看取った思い出が綴られています。たぶん口述筆記の文章ではないかと思われる話し言葉で淡々と続いていく文章を読んでいると、吉本氏がすぐそこにいて語りかけている感覚になります。
吉本氏は「うれしい」とか「かなしい」といった感情を子供の頃から表すのが鈍くて、フランシス子はその鈍さに一致して対応してくれた、その意味で自分の鏡のような存在だったそうです。この鏡のような存在を別の箇所では「うつし」だったと言っています。「うつし」というのは、合わせ鏡で自分を見たときのもうひとりの自分、猫がそこにいるってことは自分の「うつし」がそこにいるという感覚。
「僕は言葉をいうものを考えつくそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ「言葉」にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる」
そのほかにも「ホトトギスの会」という吉本氏ともうひとり友人の精神科医とで作っている会のことも書いてありました。ホトトギスという俳句や文学で詠われる鳥が、本当に文芸の中に詠われる様に存在するのかを、つきとめていく話です。文学の中における虚と実というテーマから発して、宗教家親鸞にまで話が及びます。親鸞ははなから皆が信じるもの、たとえばお経とか仏像とか、修行を疑って、そうかといって実証的にわかるところを信じたかというとそういうわけでもない。「人は死んだら浄土にいけるか」という自らが立てた大問題に対する答えを一生かけて追求した、それが親鸞の「ホトトギス」だと言っています。
さてフランシス子が死んでお骨にしてもらって、吉本氏は「フランシス子の気配とか感じるとか言うと、自分は別段そんなことはない、いないもんはいないんです」と言っています。でも忘れがたいと。それが好きってことでしょうかね、と。
最後に吉本氏はホトトギスの声を聞かせてもらいます。
はー、これがホトトギスの声なんだ。こんなにはっきり。すごいなあ。いやあ、はじめてだなあ。はじめて「いる」という感じを与えられた。
ちょっと呼びますか。
いや。向こうにうちの子どもともうひとり、いると思うので。
ちょっと呼んでもらって、もう一回聴きましょう。
さあ、みんな呼んで。みんな呼んで。
すごいなあ。いやあ、はじめてだなあ。
ホトトギスはいるんだね。
言葉と物について、一生考え続けてこられた人だったのだということがわかりました。
私も妙高高原でホトトギスの声を聴いたのです。でも簡単に俳句には出来ない。ホトトギスは何も考えずにそのまま詠んでくれればいいと言っているのはわかったけど。ホトトギスはそこにいるのだからそのまま詠めばいいんだと。
旅行から、帰ってきてそう思えるようになりました。