ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

変化

2009-09-20 | 日記
玄侑 宗久さんからのメッセージ


 二十代、死ぬことを考えた日々を憶いだすと、不思議なことに気づいた。住んでいた部屋や建物の外観、駅の名前は覚えているのだが、駅からそのアパートまでの道筋や、逆にアパートから駅までの景色がまったく憶いだせないのである。
 いったい何を見て歩いていたのだろう。
 たぶん歩幅も狭く、首も回らず、意識は頭にばかり行っていたのだろうと思う。
 要するに、病んでいたのである。
 今は、たとえば手作業するときは意識を手におき、歩くときはからだの中心部に意識を保ち、椅子に坐れば意識は椅子との接触面に広げる。そうすると、余計な考えが煮詰まらず体が動かしやすいばかりでなく、自分が常に変化しつづけているのが実感できるのだ。
 常に変化しつづけるなら、最悪の事態も好転するに決まっているではないか。
 変化は自分だけでなく、周囲との関係のなかでとてもダイナミックに起こる。
 今後の成り行きを頭で勝手に分かったつもりになり、もう死んだほうが、などと思ったことが今はとても恥ずかしい。
 私が若かった頃よりも社会の情勢はもっと息苦しく、生きにくい世の中になっているとは思う。若者や高齢者には、特に情がない社会制度だとも思う。
 しかしどうか諦めないでほしい。
 人生という崇高な作品の完成は、粘りづよく苦を乗り越えていった晩年だけにあり得るのだと思う。私はこれまでほぼ1000人ほどの死に顔を見てきて、つくづくそう思うのである。
 最後に一つだけ、あなたの白血球の寿命がほぼ24時間であることを申し上げておきたい。白血球は毎日入れ替わっている。昨日の続きが今日ではないのである。

玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう)

1956年福島県生まれ。現在は臨済宗福聚寺住職。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞受賞。2007年には柳澤桂子氏との「般若心経 いのちの対話」で第68回文藝春秋読者賞を受賞。小説のほか、仏教や禅関連の著作、また対談なども多い。2008年8月には連作小説集『テルちゃん』(新潮社)刊行。玄侑宗久公式サイトへ(別ウインドウ ※クリックするとNHKサイトを離れます)

玄侑さんの自著『無功徳』(海竜社)の中でも、本メッセージを紹介するとともに 心といのちについて禅の訓(おし)えを綴っています。




いつもいつも自分が美味しいものを食べるにはどうしたらいいかとか、楽するにはどうしたらいいか、とばかり考えているわたくし。ほんとにほんとに利己的です。
しかし最近気づいたのは、自分のことで悩むことが、若い頃よりめっきりなくなって来たことです。自分のことで悩むことより、周りの人や家族との接し方にどうしたらいいのか、ということばかり考えているのに気がつきました。ふと気づくと、自分の悩みがまったくといっていいほどなくなっていたのです。
こんな馬鹿な! 利己主義に徹した行き着く先が、自分の悩みから解放されていたとは!
いや、ほんとは自分の悩みがあるのに、それをカモフラージュするために、人のことで悩んでいるのだろう、という声が聞こえます。
仮にそうだとしても、自分の悩みと、家族も含めた自分以外の人の悩みは別であって、それに自分がどう関わればいいのか分からなくて、悩むことがほとんどです。
自分がどう関わればいいのかわからないのが、いわゆる「自分の悩み」といえばそれまでですが、若い頃のように「スタイルが悪い」とか「好きになった人とどうも会話がはずまないのは私の頭が悪いからかも」とか、いった悩みがなくなってきたのは不思議です。スタイルは確実に今のほうが悪くなっているにもかかわらず・・・
これも長く生きてきたおかげです。長生きしましょう、みなさん。