ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

マルタとマリア

2011-08-28 | 日記
教会夏の修養会2日目でした。
今年のテーマは「奉仕」です。



さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村(=ベタニヤ村)に入られると、
マルタという女が喜んで家ににお迎えした。彼女にマリアという妹がいたが、
主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところがマルタは、
いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。
「主よ、妹が私にだけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃてください。」
主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ、あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、ひとつだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

                 (ルカによる福音書10章38~42節)


忙しく立ち働くマルタが、妹にも立ち働くように言ってくださいと、主に不満を言うところです。
このマルタの言動が、不信仰だということはよく聞かれる話です。カルヴァンもマルタの発言を不信仰だと言っているようです。たしかに、彼女はあまりにも多くのことに心を乱し、イエスの言葉に耳を傾けることよりも、自分がやる奉仕に頭がいっぱいです。主の足元でじっと主の言葉に聞き入っているマリアが観想的で信仰深く、それに対して、マルタは活動的で、主の話に耳を傾ける余裕がなかった、という説教もよく聞きますが・・・
マルタはマリヤより、教会では分が悪いようです。


でも、私、このマルタという女性が大好きなんです。
妹に対する不満も、愚痴も、その妹を前に何も言わない主に態度に対する疑問も、ちゃんと「主よ」と呼びかけて、真正面から向かって、主に問いかけているではありませんか。

「どうせ、私なんか、働くだけが能のつまらない女よ」とか「まったく、イエスって何を考えているのかわからないわ」とか、自己憐憫にも陥らず、鬱屈した不満を隠すわけではなく、主のみもとにきて、訴えているところは、信仰的であるといってはいけないでしょうか。

マルタの言動の内容より、態度にこそ注目したいのです。
私たちは、嬉しいことも、悲しいことも、不平も不満も、疑惑もすべて主のもとに持っていけばいいのではないのでしょうか。内容がどんなに不信仰に見えても、主にすべてをそのまま持ち込み、主からの答えを受け取ればいいのではないでしょうか。その疑問が、当初は主に咎められるようなものであっても、主に持ち込めば主は必ず、ふさわしい答えを与えられると信じています。

主は、みもとに来て、訴えるマルタにも、きちんと答えられます。咎めるのではなく、主にある事実をマルタに述べておられるだけです。
その応答のやり取りが素晴らしいと思います。

主の御言葉を聞いたマルタがその後、何を思ったか、どのようにしたかについては聖書には書かれていませんが、思い巡らすところがあったと、私は思います。