前に録ってあった「白熱教室 カズオイシグロ」を見ました。ちょっと前に来日されたときに、どこかの書店か、カフェかわかりませんが、こじんまりした場所で、カズオイシグロ氏がファンの人たちに「小説について」語りかけるものです。
カランメソッド6ヶ月25時間の成果をヒシと感じることができました。隅々まで聞こえるのです。30分ほど集中していて聞いていたら脳が疲れましたが、言葉の隅々まで聞こえ、シャドウイングすることもできました。
これには、カズオイシグロ氏の英語が、比較的ゆっくりで、ところどころ詰まりつつ、何よりも使っている言葉が難しくない点が大きいと思います。平易な言葉で、どんどん深いところに連れて行かれる小説と同じ手法の語りでした。氏の小説も会話がほとんどで、とても読みやすいのです。但し、気がついたら、非常に深いところにまで連れて行かれたということが何度もありました。余韻も強く、帰ってくるのに時間がかかります。
話の冒頭に、氏は、「なぜ小説なのか」という問いを投げかけます。そして自分の場合は・・・と語り始めます。5歳でそれまで住んでいた純日本風の長崎の家を一家で出て、イギリスに渡り、そこで教育を受け、姿は日本人、しかし振る舞いはイギリス人になりました。言葉も日本語はすっかり忘れ、英語になったそうです。又、自分はいつかまもなく日本に帰るのだろうと、子供のころは思っていたそうです。しかしそのまま成人することになり、5歳までの記憶を自分の中で留めておきたい、というのが小説を書く動機になったそうです。
自分の場合を考えた時、5歳前の記憶は何となくあるのですが、ずっと親は同じところに住んでいて、実家もあり、風景も田舎町なりに時代の波の影響を受け、多少変わったとはいえ、まだまだ名残をとどめているものもあります。子供の頃遊んだお寺も神社もそのままです。だからなのか、意識して留めておきたいと思ったことはありません。
小説を書く動機というのは、何かの逼迫した欠落感なのかなあと思いました。また私が疑問に思ったのは、氏が5歳まで日本語を聞いたり話したりしていたという、その記憶は、本当に忘れ去られたのだろうか、氏の体のどこかに残っているのではないだろうか、ということです。
5歳までに触れる言葉の量は相当なものがあります。それがすっかり英語に入れ替わったとしたら、人間の中で何が入れ替わるのだろうか。今私は毎日英語を勉強していますが、聞き取りのレベルは上がったと思いますが、特に自分の中で変わったというものは感じられません。それはひょっとしたら大変幸福なことなのかもしれないと思いました。
集中してリスニングするレベルから、自然に入ってくるレベルへの移行は、大きな代償を払うものかもしれません。
カランメソッド6ヶ月25時間の成果をヒシと感じることができました。隅々まで聞こえるのです。30分ほど集中していて聞いていたら脳が疲れましたが、言葉の隅々まで聞こえ、シャドウイングすることもできました。
これには、カズオイシグロ氏の英語が、比較的ゆっくりで、ところどころ詰まりつつ、何よりも使っている言葉が難しくない点が大きいと思います。平易な言葉で、どんどん深いところに連れて行かれる小説と同じ手法の語りでした。氏の小説も会話がほとんどで、とても読みやすいのです。但し、気がついたら、非常に深いところにまで連れて行かれたということが何度もありました。余韻も強く、帰ってくるのに時間がかかります。
話の冒頭に、氏は、「なぜ小説なのか」という問いを投げかけます。そして自分の場合は・・・と語り始めます。5歳でそれまで住んでいた純日本風の長崎の家を一家で出て、イギリスに渡り、そこで教育を受け、姿は日本人、しかし振る舞いはイギリス人になりました。言葉も日本語はすっかり忘れ、英語になったそうです。又、自分はいつかまもなく日本に帰るのだろうと、子供のころは思っていたそうです。しかしそのまま成人することになり、5歳までの記憶を自分の中で留めておきたい、というのが小説を書く動機になったそうです。
自分の場合を考えた時、5歳前の記憶は何となくあるのですが、ずっと親は同じところに住んでいて、実家もあり、風景も田舎町なりに時代の波の影響を受け、多少変わったとはいえ、まだまだ名残をとどめているものもあります。子供の頃遊んだお寺も神社もそのままです。だからなのか、意識して留めておきたいと思ったことはありません。
小説を書く動機というのは、何かの逼迫した欠落感なのかなあと思いました。また私が疑問に思ったのは、氏が5歳まで日本語を聞いたり話したりしていたという、その記憶は、本当に忘れ去られたのだろうか、氏の体のどこかに残っているのではないだろうか、ということです。
5歳までに触れる言葉の量は相当なものがあります。それがすっかり英語に入れ替わったとしたら、人間の中で何が入れ替わるのだろうか。今私は毎日英語を勉強していますが、聞き取りのレベルは上がったと思いますが、特に自分の中で変わったというものは感じられません。それはひょっとしたら大変幸福なことなのかもしれないと思いました。
集中してリスニングするレベルから、自然に入ってくるレベルへの移行は、大きな代償を払うものかもしれません。