2011年3月11日夕方。
家族を探して小学校へ行ったが会えず、来た道を引き返す。
冬は日が短い。
雪は止んできたが、辺りは暗くなり始める。
娘の友達のお母さんからの情報をもとに、近くの消防署へ。
消防署の前は消防車が出動したと見えてスペースは空いていたものの、
緊急事態の雰囲気が伝わってくる。
入り口部分には「緊急避難所は2F」の貼り紙が。
階段を上ってみる。
いた!!!!
階段を上りきったあたりに、妻と娘たちがいる。
全員無事だ。
ほっ。
本当に無事でよかった。
これまでの動きを報告し合い、これからどうするかを話し合う。
どうする?
自宅マンションに戻るのは危険だ。
夜は停電のため真っ暗になるだろうし、何かを踏んで怪我をするかもしれない。
大きな余震がやってくる可能性も高い。
そしてここの消防署にはいつまでいられるのだ?
と話していたところ、署内に放送が流れた。
「ここは避難所として利用することはできません。近くの小学校へ移動してください。」
とのこと。
娘たちが通う小学校とは違う小学校を案内された。
我が家を含む、消防署の廊下でぐったりしていた人々が動き出す。
近くの人に、「小学校の場所がわからないのでついて行ってもいいですか?」と頼まれた。
快諾して、徒歩で移動。
外はだいぶ暗くなってきている。
消防署は自家発電で灯りがともっていたが、周囲はすべて停電している。
行き交う自動車のヘッドライト等で、車通りのあるところは明るいが、
少し路地に入ると真っ暗だ。
地震のため道路に亀裂が入っているところもある。
歩道にもそれまではなかった起伏ができている。
足元に気をつけながら歩き、どうにか小学校へ到着。体育館へ。
多くの人が避難してきている。
あまり広くはない体育館にびっしりと人が集まっている。
当然ながらここも停電しているので明るくはない。
避難してきた人の持っている懐中電灯などで少しは明かりがあるが。
個々のスペースは広くないので、座るのがやっと。
果たしてここで今夜寝るのか?
トイレが体育館から遠く、水道も止まっているのでプールの水を使って流しているようだ。
トイレから帰ってきた妻と娘が、こりゃダメだという顔をしている。
さて、狭いぞ。
ここに長時間滞在は辛いことになりそうだ。
毛布や食料等が配られそうな気配もない。
頭を切り替えた。
車には三分の二くらいのガソリンが残っている。
節約はせねばならないが、寒くなったときに暖をとることはできる。
シガーライターソケットから携帯電話の充電もできる。
車を取りに戻ろう。
そして安全そうな広い駐車場で夜を過ごそう。
そう判断し、ついて行きたいという長女を連れて再び徒歩で自宅マンションに戻る。
この時点で外は完全に真っ暗に。
長女の手をとりながらようやく自宅マンションに到着。
人の気配はあまりない。
立体駐車場の車が多く通路に移動されている。
車に多くの荷物を詰め込んでいる人もいる。遠くに逃げようというのだろうか。
自宅へ戻り、最低限の食料と毛布を確保。
車にそれらを乗せてから先ほどの小学校の近くの広い駐車場へ移動し、長女以外の家族を迎えに行く。
この途中の歩道はひどかった。
マンホールの周囲が大きく盛り上がったりしている。
注意して歩かないとすぐに転倒しそうだ。
車にようやく家族全員集合。
カーナビのテレビをつけて情報収集をしてみる。
少しずつ聞こえたりしてきていた沿岸部の津波被害の大きさが、尋常ではなかったことがこのあたりで徐々にわかり始める。
若林区の荒浜や名取市の閖上で遺体があがってきたという報道が。
耳を疑うような情報だ。
妻の実家は石巻。
しかも海岸からそう遠くない場所にある。
「まさか…」
最悪のケースが脳裏をよぎる。
ドコモとソフトバンクの携帯電話を使い、連絡をとろうと試みる。
何度もかけるが一向に繋がらない。
あっ!
自分の電話の方で呼び出しコールが鳴った。
慌てて妻に代わる。
義理の両親はひとまず無事だったらしい。
車で避難しようとしたが間に合わないと咄嗟に判断し、車を捨てて逃げたとのこと。
義父の膝下までは津波の水に浸かり、少し判断が遅かったら恐らくはもっていかれていたとのこと。
高台に避難はしたが非常に寒いというところまではわかった。
この後どうなるかはわからないが、ひとまずの無事は確認できた。
夜。
3月といえどまだまだ寒い。
非常食の乾パンをかじり、駐車場での夜が始まる。
子どもたちを早めに寝かしつけ、寒くなったらエンジンをかけてテレビで情報収集をしたりした。
短めの間隔で余震がやってくる。
大きいものも多い。
駐車場では周りにも車が結構いた。
いずれも不安そうな様子だ。
さて、これからどうなるんだろう。
電気をはじめとして、水道・ガス等のライフラインもそう簡単には復旧しないだろう。
職場も壊滅的なダメージを受けた。
当分は使えないにちがいない。
山形市の職場はどうなっているだろうか。
いろんなことを考えていた。
車中泊ということもあり、疲れてはいたがあまり眠れなかったような気がする。
こうして3月11日の夜は更けていった。
家族を探して小学校へ行ったが会えず、来た道を引き返す。
冬は日が短い。
雪は止んできたが、辺りは暗くなり始める。
娘の友達のお母さんからの情報をもとに、近くの消防署へ。
消防署の前は消防車が出動したと見えてスペースは空いていたものの、
緊急事態の雰囲気が伝わってくる。
入り口部分には「緊急避難所は2F」の貼り紙が。
階段を上ってみる。
いた!!!!
階段を上りきったあたりに、妻と娘たちがいる。
全員無事だ。
ほっ。
本当に無事でよかった。
これまでの動きを報告し合い、これからどうするかを話し合う。
どうする?
自宅マンションに戻るのは危険だ。
夜は停電のため真っ暗になるだろうし、何かを踏んで怪我をするかもしれない。
大きな余震がやってくる可能性も高い。
そしてここの消防署にはいつまでいられるのだ?
と話していたところ、署内に放送が流れた。
「ここは避難所として利用することはできません。近くの小学校へ移動してください。」
とのこと。
娘たちが通う小学校とは違う小学校を案内された。
我が家を含む、消防署の廊下でぐったりしていた人々が動き出す。
近くの人に、「小学校の場所がわからないのでついて行ってもいいですか?」と頼まれた。
快諾して、徒歩で移動。
外はだいぶ暗くなってきている。
消防署は自家発電で灯りがともっていたが、周囲はすべて停電している。
行き交う自動車のヘッドライト等で、車通りのあるところは明るいが、
少し路地に入ると真っ暗だ。
地震のため道路に亀裂が入っているところもある。
歩道にもそれまではなかった起伏ができている。
足元に気をつけながら歩き、どうにか小学校へ到着。体育館へ。
多くの人が避難してきている。
あまり広くはない体育館にびっしりと人が集まっている。
当然ながらここも停電しているので明るくはない。
避難してきた人の持っている懐中電灯などで少しは明かりがあるが。
個々のスペースは広くないので、座るのがやっと。
果たしてここで今夜寝るのか?
トイレが体育館から遠く、水道も止まっているのでプールの水を使って流しているようだ。
トイレから帰ってきた妻と娘が、こりゃダメだという顔をしている。
さて、狭いぞ。
ここに長時間滞在は辛いことになりそうだ。
毛布や食料等が配られそうな気配もない。
頭を切り替えた。
車には三分の二くらいのガソリンが残っている。
節約はせねばならないが、寒くなったときに暖をとることはできる。
シガーライターソケットから携帯電話の充電もできる。
車を取りに戻ろう。
そして安全そうな広い駐車場で夜を過ごそう。
そう判断し、ついて行きたいという長女を連れて再び徒歩で自宅マンションに戻る。
この時点で外は完全に真っ暗に。
長女の手をとりながらようやく自宅マンションに到着。
人の気配はあまりない。
立体駐車場の車が多く通路に移動されている。
車に多くの荷物を詰め込んでいる人もいる。遠くに逃げようというのだろうか。
自宅へ戻り、最低限の食料と毛布を確保。
車にそれらを乗せてから先ほどの小学校の近くの広い駐車場へ移動し、長女以外の家族を迎えに行く。
この途中の歩道はひどかった。
マンホールの周囲が大きく盛り上がったりしている。
注意して歩かないとすぐに転倒しそうだ。
車にようやく家族全員集合。
カーナビのテレビをつけて情報収集をしてみる。
少しずつ聞こえたりしてきていた沿岸部の津波被害の大きさが、尋常ではなかったことがこのあたりで徐々にわかり始める。
若林区の荒浜や名取市の閖上で遺体があがってきたという報道が。
耳を疑うような情報だ。
妻の実家は石巻。
しかも海岸からそう遠くない場所にある。
「まさか…」
最悪のケースが脳裏をよぎる。
ドコモとソフトバンクの携帯電話を使い、連絡をとろうと試みる。
何度もかけるが一向に繋がらない。
あっ!
自分の電話の方で呼び出しコールが鳴った。
慌てて妻に代わる。
義理の両親はひとまず無事だったらしい。
車で避難しようとしたが間に合わないと咄嗟に判断し、車を捨てて逃げたとのこと。
義父の膝下までは津波の水に浸かり、少し判断が遅かったら恐らくはもっていかれていたとのこと。
高台に避難はしたが非常に寒いというところまではわかった。
この後どうなるかはわからないが、ひとまずの無事は確認できた。
夜。
3月といえどまだまだ寒い。
非常食の乾パンをかじり、駐車場での夜が始まる。
子どもたちを早めに寝かしつけ、寒くなったらエンジンをかけてテレビで情報収集をしたりした。
短めの間隔で余震がやってくる。
大きいものも多い。
駐車場では周りにも車が結構いた。
いずれも不安そうな様子だ。
さて、これからどうなるんだろう。
電気をはじめとして、水道・ガス等のライフラインもそう簡単には復旧しないだろう。
職場も壊滅的なダメージを受けた。
当分は使えないにちがいない。
山形市の職場はどうなっているだろうか。
いろんなことを考えていた。
車中泊ということもあり、疲れてはいたがあまり眠れなかったような気がする。
こうして3月11日の夜は更けていった。