Live Slowly

気が向いたときに撮ります。レフ機が好きです。

東日本大震災ドキュメントその3

2011-09-15 02:13:10 | Weblog
震災翌日以降のことをまとめて。


当日は車中泊だったが、翌日からは自宅に戻って寝た。
夕方からは真っ暗で不便で…とにかく早く寝た。
夜中に揺れることも多かったけど。



我が家のライフライン。
電気は4日くらいで復旧したのかな。
近くのアパートに電灯が点いているのにふと気づいて、落としていたブレーカーを上げると…ぱっ。
感動的だった。


水道はどれくらいだったかな。
電気の少し後くらいだったかな。

水が出ないうちは台原森林公園の給水所に行って水をもらってきて、何とかしのいだ。
給水所で順番を待っていると、東京都や新潟県などからの給水車であることが表示でわかって、嬉しくて泣きそうになったのを覚えている。



ガスの復旧までは本当に時間がかかった。1ヵ月近くかかったのかな。
それまでは風呂に入ることもできなかった。
カセットコンロでお湯を沸かして、タオルで体を拭いたりして。

自分だけは仕事で山形市に泊まりになったのでビジネスホテルで入浴できたのだけど。
それでも2週間ぶりくらいの風呂だったかな。
本当に気持ち良かった。



と、いろいろ大変だったけど、津波に家を流された人たちなんかはこんなもんじゃないんだよね。家そのものがなくなったのだから。そして大切な人の命も失ったり。想像を絶する状態です。


震災後すぐはガソリンが異常なほど品薄状態に。
仙台だけではないのだけど、あちこちでガソリンを求めて行列を作っていた。
並んでも必ず給油できるとも限らないのに。

自分も山形市で並びました。最長で5時間半くらいかな。
タンクに残ったガソリンを節約して、寒さに耐えながら。




妻の出身は石巻。

義理の両親は震災後数日間連絡がとれなかった。
当日に少し話せて、津波の直撃から逃れたことはわかっていたけど、何しろあの寒さ。
高齢でもあるし病気も持っているのでとにかく心配で仕方なかった。

結果的に無事で本当によかった。
家はもうダメになってしまったけど。

今は仙台のアパートで二人で暮らしている。



あれから早いものでもう半年。

自宅マンションの修理はまだ始まっていない。

仕事でもまだまだ復興への道のりは長い。

頑張らなくちゃね。
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東日本大震災ドキュメントその2

2011-09-12 22:30:18 | Weblog
2011年3月11日夕方。

家族を探して小学校へ行ったが会えず、来た道を引き返す。

冬は日が短い。
雪は止んできたが、辺りは暗くなり始める。


娘の友達のお母さんからの情報をもとに、近くの消防署へ。


消防署の前は消防車が出動したと見えてスペースは空いていたものの、
緊急事態の雰囲気が伝わってくる。

入り口部分には「緊急避難所は2F」の貼り紙が。

階段を上ってみる。



いた!!!!



階段を上りきったあたりに、妻と娘たちがいる。
全員無事だ。

ほっ。
本当に無事でよかった。


これまでの動きを報告し合い、これからどうするかを話し合う。



どうする?

自宅マンションに戻るのは危険だ。
夜は停電のため真っ暗になるだろうし、何かを踏んで怪我をするかもしれない。
大きな余震がやってくる可能性も高い。

そしてここの消防署にはいつまでいられるのだ?



と話していたところ、署内に放送が流れた。

「ここは避難所として利用することはできません。近くの小学校へ移動してください。」

とのこと。
娘たちが通う小学校とは違う小学校を案内された。

我が家を含む、消防署の廊下でぐったりしていた人々が動き出す。

近くの人に、「小学校の場所がわからないのでついて行ってもいいですか?」と頼まれた。
快諾して、徒歩で移動。


外はだいぶ暗くなってきている。
消防署は自家発電で灯りがともっていたが、周囲はすべて停電している。

行き交う自動車のヘッドライト等で、車通りのあるところは明るいが、
少し路地に入ると真っ暗だ。


地震のため道路に亀裂が入っているところもある。
歩道にもそれまではなかった起伏ができている。

足元に気をつけながら歩き、どうにか小学校へ到着。体育館へ。



多くの人が避難してきている。
あまり広くはない体育館にびっしりと人が集まっている。

当然ながらここも停電しているので明るくはない。
避難してきた人の持っている懐中電灯などで少しは明かりがあるが。


個々のスペースは広くないので、座るのがやっと。

果たしてここで今夜寝るのか?

トイレが体育館から遠く、水道も止まっているのでプールの水を使って流しているようだ。
トイレから帰ってきた妻と娘が、こりゃダメだという顔をしている。


さて、狭いぞ。
ここに長時間滞在は辛いことになりそうだ。
毛布や食料等が配られそうな気配もない。


頭を切り替えた。
車には三分の二くらいのガソリンが残っている。
節約はせねばならないが、寒くなったときに暖をとることはできる。
シガーライターソケットから携帯電話の充電もできる。


車を取りに戻ろう。
そして安全そうな広い駐車場で夜を過ごそう。


そう判断し、ついて行きたいという長女を連れて再び徒歩で自宅マンションに戻る。
この時点で外は完全に真っ暗に。


長女の手をとりながらようやく自宅マンションに到着。


人の気配はあまりない。
立体駐車場の車が多く通路に移動されている。
車に多くの荷物を詰め込んでいる人もいる。遠くに逃げようというのだろうか。


自宅へ戻り、最低限の食料と毛布を確保。
車にそれらを乗せてから先ほどの小学校の近くの広い駐車場へ移動し、長女以外の家族を迎えに行く。

この途中の歩道はひどかった。
マンホールの周囲が大きく盛り上がったりしている。
注意して歩かないとすぐに転倒しそうだ。



車にようやく家族全員集合。

カーナビのテレビをつけて情報収集をしてみる。


少しずつ聞こえたりしてきていた沿岸部の津波被害の大きさが、尋常ではなかったことがこのあたりで徐々にわかり始める。


若林区の荒浜や名取市の閖上で遺体があがってきたという報道が。
耳を疑うような情報だ。


妻の実家は石巻。
しかも海岸からそう遠くない場所にある。

「まさか…」

最悪のケースが脳裏をよぎる。


ドコモとソフトバンクの携帯電話を使い、連絡をとろうと試みる。

何度もかけるが一向に繋がらない。



あっ!

自分の電話の方で呼び出しコールが鳴った。
慌てて妻に代わる。


義理の両親はひとまず無事だったらしい。

車で避難しようとしたが間に合わないと咄嗟に判断し、車を捨てて逃げたとのこと。
義父の膝下までは津波の水に浸かり、少し判断が遅かったら恐らくはもっていかれていたとのこと。
高台に避難はしたが非常に寒いというところまではわかった。


この後どうなるかはわからないが、ひとまずの無事は確認できた。



夜。

3月といえどまだまだ寒い。

非常食の乾パンをかじり、駐車場での夜が始まる。

子どもたちを早めに寝かしつけ、寒くなったらエンジンをかけてテレビで情報収集をしたりした。

短めの間隔で余震がやってくる。

大きいものも多い。


駐車場では周りにも車が結構いた。
いずれも不安そうな様子だ。



さて、これからどうなるんだろう。

電気をはじめとして、水道・ガス等のライフラインもそう簡単には復旧しないだろう。

職場も壊滅的なダメージを受けた。

当分は使えないにちがいない。

山形市の職場はどうなっているだろうか。



いろんなことを考えていた。


車中泊ということもあり、疲れてはいたがあまり眠れなかったような気がする。



こうして3月11日の夜は更けていった。
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東日本大震災ドキュメントその1

2011-09-11 21:16:30 | Weblog
今日は2011年9月11日。

米同時多発テロからちょうど10年。

東日本大震災からちょうど半年。



そろそろ、忘れないうちに、半年前のあの日のことを書いておこう。



2011年3月11日14時46分。
あの日、自宅からそう遠くない職場でデスクワークをしていて、
そろそろ山形市へ移動しようかという時にあの地震はやってきた。


揺れ始め。
2日前にも大きめの地震が来ていたので、またかと思いながら地震を認識。

初めは冷静だったが…すぐにとんでない大きさだということに気づき、慌ててデスクの下へ身を隠す。


感覚的には1メートルくらいの振幅でゆっさゆっさと揺らされている感じか。恐ろしい大きさ。

揺れの途中、後ろにあった巨大キャビネットが倒れてきて、さっきまで座っていたチェアが破壊される。
後日数人がかりで動かそうとしてもまったく動かないほどの重さのキャビネット。
倒れてきた時は物凄い衝撃音だった。
もし自分が少し後ろにいて下敷きになっていたならば、恐らく圧死していただろう。


揺れは本当に長く感じた。
外部の情報はないまま、瞬間的に
「震源はどこだ?」
「もし震源が東海地方で、仙台がこの揺れならば日本全体が壊滅的な被害なのでは?」
とさまざまなことを考えた。
冗談ではなく、映画「日本沈没」の画が脳裏をよぎる。




ようやく揺れが収束し、恐る恐るデスクの下から体を出してみる。

空気が白く濁っている。
天井が数ヵ所破壊されている。
エアコンが落ちて、水が噴出しているところもある。

あらゆる書類やパソコン、キャビネットが散乱し、数分前とはまるで異なる光景がそこに広がっている。

「大丈夫かー?」
「ケガはないかー?」
「急いで外に出ろー!」

社員が互いに声を掛け合って安否を確かめ合う。


靴を入れていたキャビネットも倒れているので靴を取り出せず、
すぐに来るであろう余震を恐れながら、サンダルのままで外の駐車場へ。


外へ出ると、やはり頻繁に大きな揺れが。
街灯の支柱や商業用看板がぐらぐら揺れている。
万が一建物が倒壊しても大丈夫であろう駐車場に集まり、再度安否確認。

奇跡的に社員にはケガ人なし。
よかった。

夜の仕事は絶対にできない状況だろうから、携帯電話ですぐに山形市へ連絡。
幸いまだ携帯は使える状況で、必要な場所へは連絡がついた。


ワンセグその他でやっと情報を得た社員が地震について話している。
「震源は三陸沖らしい」
「マグニチュード7.9?」
などなど。


それより家族が心配だ。
学校はどうなっている?
妻と三女は?

社長を中心に直近の対応を確認し合い、解散。
この時すでに携帯電話はほぼ使えない状態になっている。
家族の安否がまだわからない。



地震発生から1時間後くらいだろうか。
車で職場を離れて自宅へ向かう。

マンションに到着すると多くの人が階段を昇り降りしている。
停電のためもちろんエレベーターは使えない。
毛布や着替えなど大きな荷物を持っている人も多い。

自分も階段を昇って自宅へ。
車に積んであった長靴を履いていく。

壁のタイルがあちこち落ちている。
玄関ドアのすぐ横はえぐれて中の鉄筋が見える状況。
ここでも揺れが大きかったことが推測できる。


中へ入る。
どこかへ避難したのか、初めから出かけていて不在だったのか、とにかく誰もいない。
予想通り内部はめちゃくちゃ。

洗面台は上から化粧品類その他が落ちてシンクが埋まっている。

キッチンは冷蔵庫の中のものが外へ飛び出し、食器類も割れて散乱していて、足を踏み入れることもできない。危険。

リビングは大型のプラズマテレビが手前に倒れている。
ガラスは割れていないようだが。

壁には数ヵ所の亀裂が走っている。

ダイニングテーブルの位置が斜めになっている。
自宅にいたならば、この下に隠れただろうか。
とにかく無事でいてくれればいいのだが。



「地震発生時は子どもたちはまだ学校→妻と三女は長女と次女を迎えに小学校へ行った」という推測を立て、小学校へ向かうことにする。

折しも気温が急に下がり、激しく雪が降ってきた。

降りしきる雪の中、小学校への坂を登る。


小学校の体育館に到着すると、そこにはたくさんの人が。

保護者の迎えを待つ子どもたち。
子どもの名を呼びながら探す人。
互いの無事を確認して喜び合う親子。


1周してみたが、娘たちの姿が見当たらない。

ぐるぐると歩き回ってみたがやはり見つからない。

小学校の先生が声をかけてくれた。
「何年何組のお子さんですか?」

該当のクラスの待機場所へ案内してくれて、まだ残っていた児童に尋ねてみてくれた。
「もう帰りましたー!」

とりあえず無事ではいるのか?
だがどこにいる?
自宅にはいなかったし、通学路に沿って歩いてきたので、すれ違いで会わないことはないと思うが。


と悩んでいたら、同じマンションに住む長女の友達の女の子とそのお母さんに会った。
「消防署の2階に避難してる人もいるみたいですよー」
とのこと。
お礼を言って同じ道を引き返し、小学校とは反対側に位置する消防署へ向かう。


とにかくまだ安否がわからない。
子どもたちが学校では無事で、その後学校を離れたという情報は得たが、会って確認しないと安心できない。


祈る気持ちで坂を下る。


(とりあえずここまで)
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ツイッター

2011-09-09 23:52:55 | Weblog
ツイッター、ちょっと休業中です。

心の状態があまりよろしくない時に、
あのように簡単につぶやけるツイッターはね、あまりよくない。


ちょっと考えたら言わないようなことを言ってしまう可能性があるのが怖いかな。


そして見たくないものを見てしまうこともある。

知っている人の大人げない発言とか。



おっと。


熟考して書けるブログでは取捨選択しないとね。
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覆面

2011-09-09 00:19:46 | Weblog
山形道、覆面パトカー多すぎ。


今日は前方で餌食になるクルマを目の当たりにした。

スピード抑えててよかった。


シルバーのゼロクラウンには要注意。
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不惑

2011-09-08 02:18:50 | Weblog
お久しぶりです。

約1年ぶりかな。

新規投稿のしかたも忘れそうになっていた。
誰も見ていないかもしれないけどそれでも構わない。


先日、誕生日を迎えて「不惑」の齢を迎えた。
人生折り返しかな。それだけ生きるかはわからないけど。


10歳の頃、何をしていたかな。
小学生だ。
田舎の小学生だから世の中のことなんか何もわからなくて。
ただ漠然と、未来は輝かしいものだろうと思っていて。
いろんなものに憧れていて。


20歳の頃、何をしていたかな。
大学生だ。
現実がだいぶ見えてきていて、それ故に不安が増幅して。
自分の無力さが歯痒くて。


30歳の頃、何をしていたかな。
紆余曲折を経て、今の会社に入った頃だ。
結婚して父親にもなっていた。
20代で苦労したから、それを自信に変換しようともがいていた。
一生懸命だったな。


そして今。

この半生はどうだったんだろう。
答えを出すのはまだ早いしそれをすることもできない。
まだまだ道半ば。

いい父親が、いい夫が、いい企業人が、いい管理職が、できているのかね。


自らの人生は人に評価してもらうものではない。
それをすべて見ているのは自分ひとりしかいないのだから。

納得できる人生にしたい。

一日一日、一分、一秒を大切に生きていこう。
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