風雲「城撮り物語」

長年愛用のデジカメを武器に「城址・城跡」を切り撮りその戦果をブログで紹介。

「九之坪城」の由来

2006年06月11日 | 城撮り物語
「九之坪城」の由来を紹介しよう。
先祖は梁田(ヤナダ)出羽守正綱と名乗り、織田信長に仕えていた、桶狭間の合戦に際しては、梁田氏の領地でもあった守山大森村「米田城(梁田城)」近くで休憩していた今川義元の動静を探り、勝利を確信し桶狭間で酒盛りを始た情報を直ちに知らせ奇襲を進言した。
今川勢4万5千に対し織田方2千の軍勢であったが、この奇襲により勝利に大きく貢献した。
当時は敵将の首(首級)により報償が決まったが、情報提供で最大の評価を受ける事は当時として珍しい。
梁田政綱は沓掛(愛知県豊明市)に三千貫文の地を与えられ「沓掛城」城主として当地も治めた(当城は「番城」とし梁田の配下の者が実効的に収めた)その後も木下藤吉郎等とともに「姉川の合戦・長島城攻め」等多く転戦した。
梁田政綱の墓は豊明市聖応寺にある。

風雲「城撮り物語」

2006年06月11日 | 城撮り物語
 宮前城城主「尾張之守美津濃嘉二朗登志忠」は長年勤め上げたサラリーマンの退職を機に、居城としている「宮前城」を根城に長年愛用した「デジカメ」を武器として尾張の各城は元より、三河・美濃に至る「城址・城跡・砦跡」を切り撮り、我が領地とする野望を企てた。
 この壮絶な戦いの戦果を「ブログ」閲覧者に報告するとともに、敵地の情報を求める事とした。