風雲「城撮り物語」

長年愛用のデジカメを武器に「城址・城跡」を切り撮りその戦果をブログで紹介。

「美江寺城」城撮り戦果

2006年12月18日 | 城撮り物語
○美江寺城祉(和田八郎)巣南町美江寺165

城址は巣南中小学校の校庭西側に城址碑がある。
和田八郎の子「和田佐渡守」「和田伊予守高成「和田将監高行」と代々土岐氏に従ったが、斉藤道三の台頭により、守護土岐頼芸と軍を構えた。
天文8年斉藤道三方の放った火により焼失・廃城となった。

「軽海西城」城撮り戦果

2006年12月18日 | 城撮り物語
○軽海西城祉<かるみ>(稲葉氏が数代居住)本巣市真生町軽海北屋敷640

軽海西城は数代稲葉氏居城し、その後西村勘九朗(後の斉藤道三)が一時居城した。又信長との戦い後は「織田勘解由左衛門信益」が守る
城祉は現在「円長寺」であり、少し小高い所にある。
「軽海西城」の他後で紹介する「美江津城」「十九城」「十七城」はすべて中仙道沿いに点在し、犀川に沿っている。

今川義元を討った余勢をかって、永禄3年織田信長は西美濃攻めを行った。長良川に船橋を架け、勝村(平田町輪中)→森部戦場(勝利)→墨俣砦を占拠く)→十九条に砦を築く(犬山城主織田信清の弟信益を守りに置く)→十四条戦場(引分?)軽海西城(夜襲を受けるも引分?)→墨俣(引き上げ)

「本巣北方城」城撮り戦果

2006年12月18日 | 城撮り物語
○本巣北方城祉(築城:伊賀太郎左衛門光就)本巣市北方町地下246

光就の子「守就」は主君の斉藤龍興を見限り、織田信長に仕え、姉川の合戦・長島一向一揆に参戦し武功を立てた。
しかし天正8年嫡子「尚就」が甲斐武田氏に内通したとの嫌疑で信長により蟄居させられた。
その後、本能寺での信長死後、再び「守就」は北方城へ戻ったが「稲葉一鉄」に攻められ、討死、落城した。

「大留城」城撮り戦果

2006年12月17日 | 城撮り物語
○大留城址(村瀬作右衛門)春日井市大留町916

大留城は玉野川を南に、北・東・西の三方に堀を巡らし土塁で築いた平城である。
天文15年(1546)土地の領主「村瀬氏」が館を築き、天正年間には「九日市村」「篠木村」にも領地があり、四万石の大禄であった。
城址は子安神社の入り口に城址碑がある。神社の東側の竹藪の中に当時の井戸があり、神社の北東裏には空堀に使われた、加工された石が沢山堀出されていた。
(重機も入って竹藪の一部を掘削されており、史跡保存の工事である事を望む)

「廣井城」城撮り戦果

2006年12月16日 | 城撮り物語
○廣井城址(中村氏)名古屋氏中区栄1丁目州崎神社  200612.16

州崎神社の堀川端の天王崎港に尾張藩の水軍の「御船方役屋敷」があり、廣井城は館と城の中間的な防備を伴った館城と思われる。
又軍船は州崎の少し下流の御船蔵に係留されており、堀川左岸に配下の水主(かこ:水夫)百数十名が住みついていたことから、現在水主町(かこまち)の地名も残る。
又堀川は慶長15年(1611)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として「徳川家康」が「福島正則」に開削を命じ、名古屋城下の朝日橋までさかのぼる事が出来た。
 

「小林城」城撮り戦果

2006年12月15日 | 城撮り物語
○小林城址(牧 長清)名古屋市中区大須4-1-32清浄寺 2006.12.15

尾張の守護、斯波氏の一族であり、前津小林4千石を領していた。
長清は織田信長の妹「おとく」をめとったが、老後仏門に帰依し、死後廃城となった。
その後城址に「清浄寺」が建てられた。

「深溝城」城撮り戦果

2006年12月11日 | 城撮り物語
○深溝城祉<ふこうずじょう>(城主大場次郎左衛門朝満)愛知県幸田町深溝

深溝城は寛喜3年(1231)築城され山城で、大場氏はこの深溝に勢力を広げていく、寛正6年(1465)大場氏兄弟が牢人一揆に参加し、幕命により松平信光に打たれた。その後大場朝満の子景紀は松平信光の子忠定に滅ぼされ深溝城を奪われる。深溝城は松平氏のものとなり、吉良氏との戦いの拠点となった。代々深溝城主になった一族を「深溝松平氏」と言い、その後五代目忠利が吉田藩「吉田城」へ移った事から廃城となった。

「野場城」城撮り戦果

2006年12月11日 | 城撮り物語
○野場城祉(城主大須賀胤重・康高)愛知県幸田町野場西

城址は「赤川」を背後に一段高い台地にあり(民家へ入る坂道の途中)城主大須賀氏は三河吉良氏に仕え、野場に城を構える。胤重の子胤高は大永7年(1527)に野場城で生まれ、家康に忠勤し「康」の一字を賜り、康高と改める。天成二年横須賀城二万石を賜る。
その後夏目氏が納めるが、三河一向一揆に際し、松平伊忠に攻められ落城し以後廃城となる。
現在、遺溝・土塁が認められる。

「荻城」城撮り戦果

2006年12月11日 | 城撮り物語
○荻城城址(内藤弥次右ヱ門清永)愛知県幸田町萩字城址      
国道248号線荻北の信号を東へ250Mほどの所に、地名の通りあたり一面美田<幸田>が広がる田んぼ道の脇に城址がある。(耕地整理で移し変え?)
荻城は寛政(1460)の頃、内藤氏が京都から移り住み、永禄7年以来明治38年まで内藤一族が居住していた。
内藤氏は多くの三河武士と同様江戸時代に花開き、弥次右ヱ門は徳川16神将の一人に上げられる「内藤正成」の伯父にあたる。