海辺のカフェMARZO

都会の片隅で気ままに暮らすがんサバイバーの記録

8歳から自分のお葬式を想像してきた

2024-07-17 12:51:08 | 日記
前に見た、オリラジ中田あっちゃん(中田敦彦さん)のYouTube大学の本紹介で、本のタイトルなども全て忘れてしまっているのですが、よく生きるにはまず自分のお葬式をきっちり想像してそこから逆算して今日を生きる、的な話があったような。

がんも、がん以外も話題にできる仮想の海辺のカフェMARZO
店主です。

今日は「早くから自分のお葬式を想像する」です。


私の婦人科系がん発覚と同じ頃に、旦那様に膵臓がんが見つかり闘病されていた方の奥様の綴るブログ。これまでにこまめに更新があり、内容も医学的なこと、生活のこと、親族それぞれの心情をご自身の視点と絶妙な距離感で書かれていてとても参考になります。


これらは、ご主人の訃報をご友人たちに伝えるときにリンク(QRコード)を伝えたそうです。そして今朝は、そういったことも含めた看取りの後から通夜と告別式の夜までを投稿されていました。

ブログ紹介にあるとおり
「夫6X歳、私5Y歳、子供無、結婚28年目、無宗教」
私も子供無、無宗教。

私は未婚なので、患者本人(健在のご両親の長男)の役割と、奥様の役割両方を考えていかなくてはならない。とても、とても参考になります。

そこからちょっと飛躍的な思考をして
思い出したことを書く次第です。


冒頭に書いた自己啓発的な意味でなく、私は子供の頃から未来に必ずある自分の死とかお葬式のことをたまに考えることがありました。

世代的に同じくらいの子供の数が多いせいか、近所やクラスメイトの死、クラスメイトの親御さんのお葬式に行く経験が幼稚園や小学校の頃からあったからかも知れません。

一方、身内については疎く、私の誕生以前に亡くなっていた二人の祖父の次に去ったのは、離れて住んでいた曽祖母を私がかなり幼い頃に、その次は平均寿命をまっとうした祖母を自分が大人になってずいぶん経ってから見送っています。亡くなると冷たくなるのだと実感したのはコロナ前に去ったもう一人の祖母のお葬式でした。

子供だった私が自分のお葬式を
想像するようになるきっかけ

子供の頃のうちの教育は「何を試してもいいけれど、『死んだらどうなるか』だけはダメです」というものでした。母いわく、試した子供がいたけれど、そのまま人生を失ったのだと。そんな事件があったのかよく分かりません。

その意味も訳も全く分からない、そもそも死ぬって何だかも分かる前に、近所の女の子が亡くなりました。その子は障がいがあり、1年遅れて同じ幼稚園に通い、年長の時に近所に引っ越してきました。その子には(私よりも年下の)妹がいて、半ば放置気味の妹さんとよく遊んでいました。

ある日その妹さんが胸に十字架を下げていました。そして言うのです。「◯◯ちゃん死んだ。」私が行った初めてのお葬式は教会でした。全員で立ったり座ったり、たくさんお歌を歌っていた記憶があります。

家に帰ってから、いつものように外で遊んでいたら、亡くなった子のお母さんが帰ってこられました。そして玄関に入った瞬間の表情を見てしまった。堪えていた涙が溢れ出す瞬間でした。100の言葉による説明よりも、この一瞬が家族の死とは何かを教えてくれました。

また、クラスメイトが腎臓の病を治療中、感染症で亡くなりました。

私の年下のきょうだいが溶連菌感染症にかかり、私も血液検査を何回も受け、体育の授業を見学した時期がありました。

8歳までに死が割と身近であることを感じていました。
それをなぜか、怖がることもなく飄々と受け止めていました。

あれた時代を
安全に過ごせたのは想像力のおかげ?

大人になってからあることで取材を受けた時、記者が同い年でお互いの中学・高校時代の話になった時に「大変な時代でしたよね」と話したのが印象的です。別の県で育っていても共感できます。学校から帰ったら「スクールウォーズ」の再放送を皆で見ていた時代です。今では一部地域のニュースしか見ませんが、中学生同士が大勢集まって決闘したとか。

小学校の時に誕生会に来てもらった転校生は中学でお姉さんと同じ道に進んでしまい、学年イチのワルでしたが、一つ上の学年の学年イチのワルの女子とも小学校の頃仲良しでした。話はするけど一緒にはいない。

中一の時、町のお祭りに行ったらワルい子たちの輪にいつの間にか入っていました。タバコが回って来ました。「ごめん、風邪引いてるからみんなに移すとあかんからやめとく」みたいなことを言ってスルーしました。うまく抜け出せなくて帰宅が遅くなり、ふだん怒らない父が「こんなに遅いのはダメだ」と一言、その後は無言。怒り心頭なのだけは分かりました。

大学は女子寮。隣の男子寮へはしょっちゅう救急車が来て急性アルコール中毒の新入生が運ばれていました。一気飲み全盛期。女子で良かった。

潜水だけは危険だけどやらせてもらいました。活動日と同じくら勉強会にも時間を割く部活動がとてもしっかりしていました。水深5cmあれば人は死ぬ。真面目に取り組みました。潜水士の資格も取りました。後輩には海猿がいます。海に入る時にはいつも、自分のお葬式の場面を想像しました。そして、今じゃないと。

残念ながら、別の部に所属していた学科の同級生は、大学1年の時に海で命を落としました。卒業後にもう一人、離島でインフルエンザで亡くなりました。20代で一人息子でした。


さて、ここまで何人亡くなっているのか。

人には関係性はどうであれ必ず両親がいて、家族がいて、友人同僚がいます。
「死んだらどうなるのか」について(死んだ本人編は別の機会に書きますが)、周囲の人がどうなるかはいくらか分かるくらいに生きて来ました。その中でもやっぱり、人生最初に行ったお葬式の後のお母様のあの瞬間が一番強く心に残っています。正直、それ以降亡くなった友達の親御さんに会っていないのですが、同じように悲しんでおられることは想像に難くありません。

幸い自分は半世紀ほど「病気ひとつせず」「事故にも遭わず」生きてこれましたが、昨年末にその記録は途絶え、ちょっと大病。これまた幸いで余命の話が出ない程度に命に別状ないのですが、培われた想像力のおかげで何度も自分のお葬式の場面が浮かんでは密かに涙、と言うことがあります。止めようがないし、まんざら無い訳じゃない。これからも何バージョンも想像していくことでしょう。

コロナ前に亡くなった祖母は私が子供の頃から「ばあちゃんの葬式来なかったら化けて出る」と繰り返し、死ぬ死ぬ詐欺(?)は40年以上続きました。私も自分のお葬式シミュレーションも今後40年は続けていきたいと考えています。

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