公民館から歩いて来たので少々足が!
小学校から宇座集落へ向かうと右側に渡慶次運動揚があり、そこを過ぎ、しばらくいくと左側にカタノー馬揚跡の石碑が建立されています。戦前はこの一帯に馬場あったそうです。いつからこの場所で馬の競走がおこなわれたのかわかっていませんが、昔、首里の士族らが残波岬への狩猟渡慶次の途中、退屈しのぎに競馬のけいこをしたのが始まりと伝えられています。戦前は旧暦6月25日・26日の両日に各地から、飾り付けをした馬に羽織・はかまを着た騎手がやってきて競馬がおこなわれました。馬はリズミカルに走らせ、スピードではなく、走法の美しさを競うものでした。この馬競争見物は「ウマミー」と称し、重箱弁当を持参し家族で楽しんだそうです。また、この日は駄菓子・おもちゃ屋などの出店が並び、子どもらにとっても楽しい行事でした。競馬が終わるとすもう(沖縄角力)がおこなわれました。渡慶次に沖縄各地から力士が集まり、夜遅くまでにぎわったそうです。
米軍の上陸に備えて作った銃眼ですが、当時は埋め立て地でなく海だった。
実際は米軍は北谷から読谷にかけて上陸したので使われなかった。
城の小さな隙間から撃つみたいで、本当に戦う(戦略的)作戦だったのか疑問である。
健康な歯を無理矢理引き抜くなんて、麻酔もなかった時代に激痛
だったに違いない。私なんか痛みに弱いから直ぐ麻酔を打ってと
言っている。
石畳街道から左折して坂を上ると右側にあるが、地面は石畳ではない。
文化財(国指定天然記念物)指定年月日:昭和52年4月8日
仲之川の東方に金城大樋川(カナグスクウフヒージャー)、西方に寒水川樋川(スンガーヒージャー)があり、その中間にあるので「仲之川」と名付けられたといわれている。高台で水が湧く理由は地層に関係し、上層には水を通す琉球石灰岩が、下層には水をとおさないクチャ(泥岩)がある。このカー(井戸)の底辺近くも、クチャ(泥岩)になっていると推測される。仲之川の碑文によると「水は岩根よりコンコンと湧き出て、雨が降っても濁らず、日照りにも渇れず、他村より水くみにきたり、首里城の御用水にもなる重宝な井戸だったが、1863年6月の大雨で西側の石垣が破壊された。原因は地盤の弱さで、積み直すには多額のお金がかかり村だけでは修復できないと困っている時、宮城筑登之親雲上(みやぎチクドゥンぺーチン)・新垣筑登之親雲上(あらかきチクドゥンペーチン)ほか45人の協力とお金で修理することができた。そして2人は、褒賞として位階を頂戴した」ことが記されている。石積みは半円形3段のあいかた積みとなっている。住民と水の関わりを知る上で重要な史跡。
お水取りの儀式で使っていた井戸(弁嶽の川)
一等三角点がわからなかった。周囲にはこのような溝が続いていた。
「弁ケ嶽」は首里城の東方約1km の場所にあります。
峰全体が御神体(ごしんたい)になっており、俗に「ビンヌウタキ」とも呼ばれています。
海抜は約165mで沖縄本島では最も高い峰のひとつで、沖縄戦の前までは松などの大木が茂り航海の目印にもなったそうです。
琉球王国時代には年三回(1,5,9月)国王の親祭が行われていました。
弁ヶ嶽には大小二つの御嶽があり、参詣道を挟んで東側の小高い杜になっている方が大嶽、南側の低い方が小嶽で、どちらも神聖な拝所です。
また、大嶽は神名を「玉ノミウヂ スデルカワノ 御イベツカサ」といい久高島への遥拝所(ようはいしょ)、小嶽は神名を「天子(テダコ)」といい、知念村の斎場御嶽(セーファウタキ)への遥拝所であったといわれています。
大嶽前の石門は、1519年頃に園比屋武御嶽(石門)とともに築かれたといわれており構造も工法もよく似ていたそうです。
この石門は1938年に国宝に指定されましたが沖縄戦で壊され、現在のコンクリート造りの門に建てかえられました。
沖縄県警那覇署は13日、那覇市泊の崇元寺にある県指定有形文化財の石碑「下馬碑(げばひ)」の土台に缶スプレーで塗料を塗ったとして、那覇市安里の自称建設作業手伝いの男(53)を文化財保護法違反の疑いで逮捕した。調べに容疑を認めているという。
崇元寺には、舜天(しゅんてん)以下歴代国王の位牌がまつられていた。戦前は石門の東西両側に碑が建てられており、西側の碑は戦災で建物ともに破壊され(碑の頭部、中央部の一部分が県立博物館などに保管)東側の碑だけが残っている。
文化財(国指定建造物)指定年月日:昭和47年5月15日
旧崇元寺は、臨済宗の寺院で山号を霊徳山(れいとくざん)といい、舜天(しゅんてん)から尚泰(しょうたい)までの歴史の国王の神位を安置した琉球王国の国廟(こくびょう)。冊封使(さっぽうし)がやってきた時、首里城で新しい国王を封ずる儀式の前に、なくなった先王の霊位をまつる「先王諭祭(さんおうゆさい)」の儀式をここで行った。この寺の創建は、門の前にある崇元寺下馬碑の銘から尚清(しょうせい)王が即位した直後の1527年と推定されている。第一門及び石牆(せきしょう)とは、正面中央部の石造拱門(アーチ門)と周囲を巡る石垣をいい、門口には木製の扉が取り付けられ、門の大きさは幅約13.18m、厚さ約3.94m、中央の間口約2.51m、左右の門口は、それぞれ約2.18mになる。この門を中心に両側に連なる石垣は切石積みになっている。全体は凸形になっていて両掖門(りょうわきもん)を備えた石門になる。尚真(しょうしん)から尚清(しょうせい)の代(15世紀~16世紀中頃)に建てられたと推定され、独創的な意匠により、沖縄の代表的な石造建築のひとつとされている。
安波茶橋と石畳道は、1597年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられて
います。首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々の往来でにぎわい、国王もこの道を通って普天間宮
に参詣しました。
橋は石造りのアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋と支流のアブチ川に架けられた北橋から成ります。深い谷の滝壺の
側に巨石を積み上げる大変な難工事だったと思われます。南橋は沖縄戦で破壊され、北橋も崩壊していましたが平成
十年に北橋を修復しました。
端の下流部分には、赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられる赤皿ガーがあります。