太目のウドンと豚肉とキムチを軽く炒めました。
戦跡巡りを詰めてしていたので、ふくらはぎが痛くて歩けなかった。検査マニアとしては直ぐ検査した。
レントゲンでは異常はないが、骨盤や背骨や脊椎のゆがみ等が指摘された。
心臓足首血管指数・足関節上腕血圧比の結果は動脈の詰まり程度・動脈の硬さ程度とも正常範囲だった。
ここの医院での会計は、診察カ-ドで機械が読み取り機械にお金を入れる。
世の中の進歩に置いて行かれないようにしないと!
少し、休憩します。
少しでも痛みが和らぐと動いてしまうからなあ!
筋肉も動かさないと駄目だからと、自分に都合の良い解釈をしてしまうのです。
公園の西側の道を登っていくとイーヌカーに道じ、手前を右にまがって墓への参道を登りつめたところにある。公の墓は、琉球石灰岩の上に石を積み上げ、その上に反りのある方形の屋根をのせてある。墓碑が向かって右に建ち、「昭和十二年八月建設」の銘がある。喜舎場公は、喜舎場村の創建者といわれる。『球陽』(1745年)の外巻『遺老説伝(いろうせつでん)』に、「往昔、喜舎場公ナル者有リ、此ノ村ヲ創建ス。因リテ喜舎場村卜名ヅク。是レ故ニ今二至ルマデ毎年二月、村長皆其ノ墓ヲ祭ル。墓ハ本村後岩二在リ」(原漢文)と記す。かつては二月に祭っていたが、現在は、旧9月18日に例祭が行われる。喜舎場公は、仲順大主と同時代の人といわれるので、13世紀初葉の人であろうか。墓所の南、トゥンの下方にある仲間根所(現在は、屋敷に火の神のみあり)は、喜舎場公の直系にあたるといわれる。
焚字炉は字を書いた紙(字紙)を焼く炉で、別名惜字炉(せきじろ)ともいい、1838年(道光18年、尚育4年)来島した冊封使林鴻年(りんこうねん)が、文字を敬重し、字を書いた紙を敬うことを説き、焚字炉を設置させたのが始まりで、学校や番所などに設けられたという。
諸志の焚字炉は字諸志48-1番地の集落内の道路と道路の角にあり、小さな石造物のため、なかなか気が付かない。高さが約90センチで、幅は約60センチの方形となってところここ一かいる。側面は4面のうち道路に面した部分のみが確認され、紙を入れる約12センチの円形の穴がある。地元ではイシドゥールーと呼び、また「髪」を焼いたとも言われ、今後さらに調査研究していく必要がある。焚字炉は村内では、現在の所のみで、県内でも数少ないと言われる。
産井(ウブガ―)
水はキレイでメダカ(グッピ―?)が泳いでいた。
新井(ミ―ガ―)
比謝橋近くのメーダグシク西側の谷間にあります。切石積みのカー(湧泉・井戸)がふたつあり、川近くのものをミーガー、奥のものをウブガーと呼んでいます。ウブガーでは生まれた赤子を浴びせる産水や赤子の額になでる水をくみました。また力一から小さなエビや力二をつかまえ、赤子の身体にはわせ健康を願いました。ミーガーは大正12年頃に造られたようです。いずれのカーも水道が普及するまで大切に利用されてきました。湧水は干ばつでも枯れることがなく、対岸の嘉手納の沖縄農林学校の生徒も利用したようです。現在でも古堅区では水の神に感謝し拝み、清掃をしています。古堅ガーは戦前の切石積みが良好に残っている貴重な石造建造物です。
コバテイシは、シクンシ科に属する熱帯性の高木で、葉は半落葉性で、小枝の先につき、20~30センチで大きい。果実は3~6センチで、緑色または赤味を帯び海水に浮かんで漂流します。
今泊のコバテイシは、樹高約18メートル、胸高周囲4.5メートルで推定樹齢は300~400年で地元では「フパルシ」と称えています。
本種は、幹が大きく成長し輪生している枝は水平に拡がり、樹形が美しくの集合場や墓地などに植えられています。特にこの地のものは、古来名木として
親泊のくふぁでさや 枝持ちの美らしさや
わやくみの妻の 身持ち美らしさや
と歌われ、以前はこの樹の下で豊年踊りや競馬が行われ、また、区民の集合の場になっていました。
沖縄県 今帰仁村