五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

阿蘇道場の建設

2009-01-17 06:38:28 | 五高の歴史

阿蘇道場の建設(続習学寮史四十五頁から四十八頁を転載)
昭和14年其最後の試験中に二つの重要な議が起こった。
其の一、寮運動部主催として夏休み中に富士―――山中湖キャンプを決行するという近代にない壮大な計画であり、長谷川総代らの立案であった。これは7月24日より八月十日まで決行され、龍南会からキャンプ道具一式借り入れて行き、山中湖畔清涼の気を養い霊峰富士に登攀して五高健児の意気を示しキャンプ先で少年団と仲良くなったり一高生のキャンプ嘯雲寮に野球試合に乗り込み2点で惜敗したり野性的、男性的な痛快な日々を過ごした、この内、白川。竹原、両先生が視察に来られ皆の元気な姿を見て安心して帰られたし、毎夜毎夜のストームにファイアに若き歓喜を爆発させていると、その「武夫原頭に」の声を聞きつけて四十五十の先輩たちが時々、「なつかしいぞう」と声をかけて貰って来る事もあり先後輩会して新旧談に花の咲く事もあった。この年を濫觴として之から4年間、昭和十七年まで続けられ代替毎年十日間程、夏休みを利して行われたが、後にはキャンプ先で婦女子と接近したとかしなかったとかの問題も起こったこともあり。加えて戦争の勃発、旅行の窮屈化、物見遊山廃止等の情勢により自然消滅となった。
他の重要な議とは、阿蘇道場の建設である。七月、当時の龍南会総務武藤貞英氏、福山俊郎氏を中心として、始めてその議が起こったのである。その意図する処は阿蘇登山の為の快足場として山中湖の一高のそれの如き校外寮ともいうべき性格のものを建設する計畫であった。校長官舎を訪れた処、校長もその趣旨には賛成なれど相当困難な大事業だから軽挙を慎み熱考する様勧告あり、他日再び会合して議を練る事として別れたが、それより武藤、福山両氏は学期試験中にも不拘奔走し高森教授を訪れ、(此時先生は丁度試験中の事とて点もらいの輩かと思って玄関払ひしようと呵々大笑いして編者に語られた。)校長からも積極的賛同を得られなかった事を告げて、その後協賛を乞日、校長から具体的計畫なき事を指摘されたのでまづ資金と土地の問題を解決せんとし、高森先生の御努力で増永茂己氏、吉村常助氏、藤井利七氏の三先輩より基金六千円の提供を得、土地は内牧町長に両総務の直接交渉によって、内牧町長小島氏も大いに感激して町有地一万坪を無償、貸与され、更に此の農業会長、同地方青年団長にも意のある所を告げた処これらの人々もその趣旨に双手をあげて賛同してくれ、土、材木などを無償提供してくれる事になりここに熊電社長中島為己氏を委員長とする建設委員会を作った。入手難に悩んだ鉄板は、中島氏が菊池の発電所改造による廃品を譲ってくれ、釘は県知事近藤駿介しの手により入手、増永先輩自ら測量工事を引受けて下さる等、先輩の絶大なる御後援によって工事が進められた。更にこれより先、資金難は最大の問題であったが、その旨先輩に訴へ先にのべた、増永、吉村、藤井氏の六千円を基金として武藤、福山両氏は東京をはじめ全国、又朝鮮満州へ迄お足を伸して寄付募集に廻り、総務の苦心の結晶と、先輩の好意の賜物として滞りなく集まり、この問題も解決した、又努力の問題は、全校職員生徒の協力一致の作業によって解決した。夏休中、基礎工事を行う事となり、休中であったが生徒に檄を発して召集した処わざわざ自費で来り参じて建設作業に従事する者延数百に達し、炎天下、蚤と蚊に悩まされつつ杉の根堀り斜面の切開き等々に努力を傾注し、更に伝え聞いた各地の先輩も来り、自らもつこを担い石を割り師弟、先輩一致して尊い勤労がつづけられ、之は二学期もずっと続けられ、かくて阿蘇道場は十五年二月竣工したのである。而して、この性格は始の予定は先述の如くカムフアタブルな校外寮、登山の足場とする積りであったのが、さて完成して見ると、俄に校長更迭で新校長添野先生の禅道式修練主義(当時の学生のいわゆるソヘニズム)に基づいて、一には当時流行の兆しを見せた修練道場としての性格に変化したため、阿蘇修練道場となり、生徒、先輩中に多少憤慨した人もあったという。これ以来新入学生は各組毎に道場で修練を行い、或は寮委員、その外のグルツぺ、時には教授連も強制的に行かせられた。国旗掲揚、坐禅、作業等が行われたが、終戦後は性格一変して、当初の目的通り登山への宿所として、或は又付近に開墾耕作している土地の作業に行く生徒の宿舎として活躍しており、その所属は龍南会である。