五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

小山先生の「最後の生徒課長として思う」

2015-03-19 06:00:49 | 五高の歴史
全国五高会会報を眺めていたところ小山直之先生の「最後の生徒課長として思う」という文章に出会った。小山直之先生については学生時代、先生の講義を心理、倫理等を受けたが、ただ単位を修めると言うだけに終始し内容等は全くの理論と云うか難しく講義の思い出はあまりない。しかし職員になっての現役時代には学生部の職員として学生諸君と大分対応したのでその時代の学生部長であるので想い出もまた深い.



ここでは最後の生徒課長として思うこととして小山直之先生の文章を参照として五高の最後を思い出すことにしたい。昭和二十五年三月二十五日、五高校長は河瀬嘉一先生の下で閉校式が行なわれている。この頃は所謂学生運動が盛んで陸士、などの軍関係の学校に曾て在学していた連中も在籍しており熱心だった。五高もいよいよ閉校と云う事で共産青年同盟の解散式も行われている。二十二年に入学し二十五年に卒業し旧制大学へ進学した者、二十三年に入学し二十四年一年修了と同時に新制の熊本大学へ入学したもの、これらの人々は一年間は習学寮で寝食を共にしたものである。熊本大学になり寮は現在地の小積へ移転しているが、小蹟はここは私立の旧語学専門学校が使っていた場所であった。

終戦後も物資不足はひどくその日の食事にも欠くと言う時代、五高時代の炊事委員は田舎まで買い出しに行くという有様であったが、熊本大学の寮になってからは炊事委員の権威も薄らぎ炊事委員はアルバイト化していた。インフレ時代となり寮の経費もかさむようになったので炊夫の幾人かは学校で採用しようかと云うことになったが、今までの寮の自治の精神に反するからと炊事委員は頑張っていた。

熊本大学学生寮時代になると炊夫も学校で雇って呉れ、水道光熱費も学校で負担してくれそのくせ入寮の許可権は学生に渡せと寮務委員との間で交渉が難航している。




熊本大学になって旧制高等学校の制度を復活する事は不可能であるが、その精神は何らかの形で今後の教育に生かして行きたいと思うのは旧制高等学校の経験者であったら勿論誰でも願っていることではなかろうか、五高の剛毅朴訥とは他からの圧力や誘惑に屈せずどこまでも自己の専念を守り通す、これを単に蛮としか徒られないのは何おか況やであろう。