五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

「五高と近代日本」から青春エピソード

2012-05-29 03:31:13 | 五高の歴史

今朝は再び五高と近代日本から青春エピソードを掲げることにした。

●青春エピソードの数々・・・明治42年から大正2年の卒業まで

▽オハラハラ  デカンショ節 でストームが横行した

▽住江金之明治43農科卒 御船 酒博士 自炊の炊事委員制度が廃止された時代

▽野田寛、熊本中学校校長に預けられた3人がある、明治44英法卒佐々信一、仝松尾精一、政界の寝業師と言われた大麻唯男、佐々の弟佐々弘雄、

▽末は大臣か博士か 綾部健太郎と菊池寛がある菊池寛は一高の推薦組ではないが一高を中退している。綾部健太郎は衆議院議員を五期努め、運輸大臣等を歴任し衆院議長になっている。大相撲時津風や出羽の海と親交があり、吉田司家の不祥事で司家での授与が出来なくなったが神宮での横綱免許状授与に貢献した

▽原邦道日本長期銀行頭取と坂内義男は球磨川発電の電力からそごう百貨店を創設・五高出身の財界の大御所二人は共に明治45年法科卒、森本貫一、生野稔は旭硝子の社長と副社長の45年の工科卒

▽熊本パーテイーと大野熊雄、熊本パーテイーは済々黌、熊本中学校出身者を中心とする英法科のグループ、大野熊雄は大正2年1部英法科卒 弁護士 日本武道会の最高権威者 京大卒後大阪高校、大阪外語講師 毎日新聞記者、東亜同文書院教授、京都大学学生監・学生主事等。剣道9段、柔道7段居合道10段 水泳9段 映画の殺陣指導する
明治四五年卒には江橋修、大正二年には中村重喜児玉正大塚勝次等々あり

 この時代の生徒には新婚教授を冷やかしたり、授業を抜け出したりする者も多かった。

▽笑うてごらんードイツ語法制経済教授の坂田道雄を冷やかした・大塚勝次等の済々黌仲間のメンバー

▽その他として明治42,牛島清彦、映画監督明治44高野弦雄 弁護士 平川清風 大毎新聞,明治45細川隆之、緒方弘、ふぐ毒の権威福田得志等があり大正2北村直躬等がある

▽旧制高校にとってのスポーツ活動とは?体育会系の各部は雑誌部、文芸部と共に校友会組織の中に位置づけられて、各部ともその活動をとうして教養、鍛錬に努め教場における自治・協同の生活訓練と相まって独自の校風形成の担い手になっていった。

その一方では地域社会に対してのスポーツ文化のリーダー役を果たすと共に地域社会の誇りに繋がった。大野熊雄のような人物が愛される所以で憧れの対象であった。

 打倒○○高は学校挙げての対抗戦で野球、柔道、剣道、庭球、特にボートは部対抗戦で正岡子規の名づけ、訳による野球は一高,三高対抗戦はm32年始まりその後庭球、陸上,漕艇bを加えs23年まで続けられた、挑戦状を作り試合を申し込むケースもあった。対抗戦では水杯を交わし選手団は円陣を作り猛練習に励んだ

 ●五高では明治34年4月の福岡市で行なった山口高校との初の野球対抗戦で西日本地区の初のインターハイ戦であった。明治37年春には福岡で山口戦を行い、剣道、テニスも勝利している。

この対抗戦はインターハイとして発展し、帝国大学が単独で、また連合して主催する全国規模の継続的な競技大会で大正から昭和期にかけて参加者は高専大会または京都戦と呼んでいた。

最も古いインターハイは京都帝大野球部の主催でまた庭球も仝庭球部主催で明治44年に開催されている.大正13年7月からは東大、京大、東北、九大主催で全国野球専門学校野球大会が始めっている。大麻唯男は七高戦で稚児のごたると言ってステテコ踊りを披露し有名になった。生徒は勝負は論外として「五高に出て来い」とかっぱしに生涯に亘る仲間を作った。

 



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