五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

俺の熊本今昔物語から

2016-01-30 05:41:51 | 五高の歴史
早いもので2016年も1ケ月暮らしてしまった。熊本地区も近来にない寒波に覆われ庭の植木の新芽のすべてが枯れてしまったようである。かっては庭を利用した温室を作り大事していたが、1回1回と温室に入れるのも面倒になり今では成るようになれの精神でほたっている。これも年取った証拠であろうか植木の場所を直したりするより我が身を大切にする必要に追われるからでもある。

今朝は五高と熊本大学岳中典男昭和11年理科卒の岳中先生の記事を転載しその昔をしのんでみたい これは昭和51年6月の全国五高会会報第五号に掲載されたものである。

昭和24年に熊本大学が創設され、その翌年五高は学制上廃止となった。現在の熊本大学は6学部で構成されそのうち、法文理学部及び教養学部は五高を前身として発足したのであるが、旧制高等学校の体系を継承したものではない。教育、医、薬、工学部の学生を合わせると六千名に及び、かつて5万坪を誇った敷地も学園としては既に狭隘となった。
  立田山麓の自然は昔のまヽではないし、そこに住む人の姿も心もすっかり変わったが、五高の追憶は龍南の聖地を離れては存在しない。面影をほぼ原形をとどめ ているのは、重要文化財に指定された赤煉瓦の校舎である。表門はいぜん開くことはない。武夫原が運動場として残されているのは幸いであるが、南隅に体育館 があって松林はまばらとなった。国道に面した門をはいると桜並木のサインカーブがつづき正門にいたる。その右側にの東光原、左側には杉林やプールがあったが、今日では学生部、図書館、教養部、学生会館などが立ち並んで空き地はほとんどない。管理権の行き届かぬ一角もあって、大学紛争の傷痕は深い。
  昭和5年度に建造された記念講堂は、昨年八十八周年の式典を終えて間もなく解体された。良質の建材は専門家も驚嘆するほどであった。正面の校章は取り外し て資料館に保存されている。白草原近傍の武道館は撤去され、集会所も近くその予定である。東と北の通用門は伝統の名残をとどめている。習学寮跡は法文学部 となっており、寮の悪童たちにかわって女子学生の往来が目立つ。 学生の間で、「武夫原頭に草萌えて」の歌声を聞くことがある。五高はまだつづいていると思う人もあるが、どうもそれは錯覚のようである。五高の精神を象徴 するように、夏目漱石、小泉八雲、嘉納治五郎の諸先生の名言碑が建てられているが、現代の学生にとってはその魂は無縁に近い。大衆化され、社会に開かれた 大学には、濁世の波を堰きとめる精神の砦はない。五高は終り、終りあるものこそ美しい。時の流れに抗し難く、時光徒らに過ぎて空しきを覚ゆるのみである。

 岳中先生は俺が若かりし時学校事務の職場の現役時代何年かお世話になった先生である。

  はやいもの今年も一ケ月暮らしけり    どうしたかただ日を送るばかりが人生じゃない   近頃は頭の回転ボケたよう