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三味線屋・勇次はなぜ仕込み三味線やバチでなく糸を武器に選んだか

柳田理科雄が指摘したように、勇次がなぜ三味線の糸を武器に選んだか謎である。
特に『新必殺仕事人』の初期、勇次は仕置の後に糸を回収しなかったので敵の首に糸がついたままだった。
これでばれない方が不思議だった。

また勇次は糸を切れると苦戦したが、人間を吊り上げるほどの怪力なら素手で戦えるはず。組紐屋の竜もそうで、紐を封じられた時に箒を振り回して暴れるだけで、敗れてしまったのは妙である。

勇次の育ての親だったのはおりくで、おりくは三味線のバチを武器にしていた。
勇次とおりくが活動した時代で、年号がわかるのはアヘン戦争終結時の1842年。なお、おりくが竜・政と組んでいた『ブラウン館』はアヘン戦争から四半世紀余り経過した時代で、この作品のおりくは別人だろう。

劇中の時代設定で1832年から1841年まで活動していた旧からくり人の仇吉と、仕事人の元締だったおとわは三味線のバチの他に仕込み三味線も武器として使っていた。

おりくは勇次だけでも堅気に育てようとしたが、「蛙の子は蛙」で勇次もいつの間にか仕事人になった。糸を使う技は独学のようだ。では勇次はなぜバチや仕込み三味線を選ばなかったのか。
1842年当時は天保の改革の時代で、歌舞音曲が規制されたはずだが、勇次とおりくがそれで「被害」を受けた様子はない。
むしろ天保の改革(1841~43)には太棹の新之助(演:田村亮)が加代改革の被害者となっており(『オール江戸警察』)、この新之助が仕込み三味線を使っていた。

また、おりくと同じ山田五十鈴が演じた泣き節お艶(『新からくり人』)が改革の被害者として描かれており、一座が江戸から追放された。これは1844年の高野長英脱獄の時で、改革は終わっていたはずだが、どういうわけか。
ここでお艶と組んだ長英は蘭兵衛と名乗り、仕込み杖を使うからくり人となっていたが、この長英の弟子の糸井貢が三味線弾きで、1853年に主水と組んでいた。

なお、必殺シリーズで最初に三味線のバチを使ったのは『仕掛人』の西村左内で、朝日放送版では時代設定は文化・文政年間(文化1804~文政1818~1830)だった。
また、おりくが不在で、勇次が活動した時代でわかっているのは『主水死す』における嘉永年間、葛飾北斎没の1849年(嘉永2年)から1851年までであった。

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2014年8月

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