『水戸黄門』第2部第31話「家宝争奪作戦(柳河)」では九州筑後柳河藩に「大殿(おおとの)」がおり、存命中に藩主の座から退いた「さきの藩主」がいたことになる。調べると水戸光圀隠居時代、この柳河藩では1696年に藩主が交代しており、その前の柳河藩主は光圀隠居前に藩主になっており、後(あと)の柳河藩主は光圀没後まで藩主だった。
すると第2部の時代設定は1696年以降の可能性が高い。
第2部最終回で光圀は生類憐みの令を批判。まず光圀は弥七に命じて犬の皮を入手させ、これを柳沢吉保に贈り、将軍に届けるよう頼んだ。吉保はこれを将軍に見せ、「ご老公は乱心でございます」「乱心者を『副将軍』などと遇する必要はありません」「即刻、蟄居が適当かと」と進言。
しかし、光圀が乱心であろうとなかろうと「副将軍」などという役職は正式には存在しなかったから、もとより綱吉が光圀を「副将軍」などと遇する必要はなかったのである。
柳沢吉保は法的には真っ当なことを言っていたし、光圀の切腹でなく蟄居を望んでいた(もともと光圀は隠居の身)意味では柳沢は優しい幕臣だったことがわかる。
江戸城に呼ばれた光圀は、柳沢吉保一人に政治を任せず、御三家の力も借りるよう、光圀が綱吉に進言。徳川家による同族支配を絶対化する思想の番組であった。
では、紀伊と尾張は水戸の味方だったか。
第37部最終回では御三家の一人・紀伊藩主・徳川光貞が黒幕となって、彼の手下のグループが水戸徳川家の綱條の息子・徳川吉孚(~よしざね、よしのぶ)を誘拐。
結局、光圀が吉孚を奪還し、綱吉によって実行犯が処罰されたらしい。
しかし水戸家が「副将軍」などを名乗っていたことが、柳沢吉保だけでなく、親戚である紀伊徳川家からも反撥を受けていたわけだ。
これは光貞が隠居した1698年と思われる。
次の第38部ではなぜか時代が後戻りして、1697年が舞台。
光圀は紀州で源六、のちの吉宗と出会う。光圀は吉宗を誘って工事の労働者となり、源六は悪人の手にかかって刀を突きつけられる大ピンチ。そこに光圀が現れ、源六を救ったが、光貞が知ったらどう思ったか。これが翌年の吉孚誘拐事件につながったのかも知れない。
なお『八代将軍吉宗』では、当時、吉宗は源六から頼方に名を改めており、江戸城で綱吉に謁見。光貞も同席していた。わざわざ光圀が紀州まで足を運ばずとも江戸で会おうと思えば会えたわけだ。
このように水戸徳川家が「副将軍」という名前だけの虚構の肩書きを名乗っていたことが、結果として柳沢吉保だけでなく紀伊徳川家にとっても邪魔だったことがわかる。
また、光圀も綱條も水戸にとって名君かどうか。東野英治郎主演の『水戸黄門』では、光圀が旅から戻ると、霞ヶ浦から運河を引く工事で、大量の農民がこき使われていたことがある。それにあの世直し旅のせいで水戸藩の財政は破綻し、年貢は天井知らずだっただろう。光圀が訪れる各地での「私腹を肥やす家老」などまだ可愛いものだった。
『水戸黄門』第2部によると、綱吉の母は6代目の将軍として、綱吉の息女・鶴姫が嫁いだ徳川綱教を推しており、綱教に万一のときには、柳沢吉保は息子・吉里を綱吉の御落胤として6代将軍に擁立しようとしていた。だが、光圀は甲府宰相(のちの家宣)を推していた。
6代将軍は結果として光圀の思いどおりになり、憐みの令も家宣の治世になってから廃止された。ただ、『水戸黄門』で描かれてきたのは、結局、綱吉の配下であった光圀と吉保の間で起きた「次期将軍をめぐる対立」という、江戸幕府の中の「コップ(茶碗?)の中の争い」であった。
『水戸黄門』はもともと元禄時代を舞台にしたことで、「倒幕」も「開国」も正義になりえない問題をかかえていた。光圀がいくら庶民の味方を名乗ったところで限界があった。問題解決は「葵の紋」だけで、徳川に逆らう物は悪玉。倒幕運動が『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』で描かれたら、その運動は悪とされただろう。もしこれが幕末の斉昭や慶喜の時代であれば、「倒幕」と「開国」が民の声に結びついた。もっとも戦国も幕末も時代の変化は武士階級同士の勢力争いに過ぎなかった。
乱世のあとの太平の世、幕末のあとの明治時代にも、民が苦しむ様子、反乱が描かれていることからわかる。すると「民の声」が必ずしも正しいかどうか、不満があるとトップを引きずり下ろすだけでいいのかという問題が生じてくる。
『水戸黄門』における「副将軍」は虚構または飾りであった
『水戸黄門』が人気だった背景、一揆が幕府を倒せなかった歴史
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2011年10/14 10月
関連語句
生類憐み
すると第2部の時代設定は1696年以降の可能性が高い。
第2部最終回で光圀は生類憐みの令を批判。まず光圀は弥七に命じて犬の皮を入手させ、これを柳沢吉保に贈り、将軍に届けるよう頼んだ。吉保はこれを将軍に見せ、「ご老公は乱心でございます」「乱心者を『副将軍』などと遇する必要はありません」「即刻、蟄居が適当かと」と進言。
しかし、光圀が乱心であろうとなかろうと「副将軍」などという役職は正式には存在しなかったから、もとより綱吉が光圀を「副将軍」などと遇する必要はなかったのである。
柳沢吉保は法的には真っ当なことを言っていたし、光圀の切腹でなく蟄居を望んでいた(もともと光圀は隠居の身)意味では柳沢は優しい幕臣だったことがわかる。
江戸城に呼ばれた光圀は、柳沢吉保一人に政治を任せず、御三家の力も借りるよう、光圀が綱吉に進言。徳川家による同族支配を絶対化する思想の番組であった。
では、紀伊と尾張は水戸の味方だったか。
第37部最終回では御三家の一人・紀伊藩主・徳川光貞が黒幕となって、彼の手下のグループが水戸徳川家の綱條の息子・徳川吉孚(~よしざね、よしのぶ)を誘拐。
結局、光圀が吉孚を奪還し、綱吉によって実行犯が処罰されたらしい。
しかし水戸家が「副将軍」などを名乗っていたことが、柳沢吉保だけでなく、親戚である紀伊徳川家からも反撥を受けていたわけだ。
これは光貞が隠居した1698年と思われる。
次の第38部ではなぜか時代が後戻りして、1697年が舞台。
光圀は紀州で源六、のちの吉宗と出会う。光圀は吉宗を誘って工事の労働者となり、源六は悪人の手にかかって刀を突きつけられる大ピンチ。そこに光圀が現れ、源六を救ったが、光貞が知ったらどう思ったか。これが翌年の吉孚誘拐事件につながったのかも知れない。
なお『八代将軍吉宗』では、当時、吉宗は源六から頼方に名を改めており、江戸城で綱吉に謁見。光貞も同席していた。わざわざ光圀が紀州まで足を運ばずとも江戸で会おうと思えば会えたわけだ。
このように水戸徳川家が「副将軍」という名前だけの虚構の肩書きを名乗っていたことが、結果として柳沢吉保だけでなく紀伊徳川家にとっても邪魔だったことがわかる。
また、光圀も綱條も水戸にとって名君かどうか。東野英治郎主演の『水戸黄門』では、光圀が旅から戻ると、霞ヶ浦から運河を引く工事で、大量の農民がこき使われていたことがある。それにあの世直し旅のせいで水戸藩の財政は破綻し、年貢は天井知らずだっただろう。光圀が訪れる各地での「私腹を肥やす家老」などまだ可愛いものだった。
『水戸黄門』第2部によると、綱吉の母は6代目の将軍として、綱吉の息女・鶴姫が嫁いだ徳川綱教を推しており、綱教に万一のときには、柳沢吉保は息子・吉里を綱吉の御落胤として6代将軍に擁立しようとしていた。だが、光圀は甲府宰相(のちの家宣)を推していた。
6代将軍は結果として光圀の思いどおりになり、憐みの令も家宣の治世になってから廃止された。ただ、『水戸黄門』で描かれてきたのは、結局、綱吉の配下であった光圀と吉保の間で起きた「次期将軍をめぐる対立」という、江戸幕府の中の「コップ(茶碗?)の中の争い」であった。
『水戸黄門』はもともと元禄時代を舞台にしたことで、「倒幕」も「開国」も正義になりえない問題をかかえていた。光圀がいくら庶民の味方を名乗ったところで限界があった。問題解決は「葵の紋」だけで、徳川に逆らう物は悪玉。倒幕運動が『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』で描かれたら、その運動は悪とされただろう。もしこれが幕末の斉昭や慶喜の時代であれば、「倒幕」と「開国」が民の声に結びついた。もっとも戦国も幕末も時代の変化は武士階級同士の勢力争いに過ぎなかった。
乱世のあとの太平の世、幕末のあとの明治時代にも、民が苦しむ様子、反乱が描かれていることからわかる。すると「民の声」が必ずしも正しいかどうか、不満があるとトップを引きずり下ろすだけでいいのかという問題が生じてくる。
『水戸黄門』における「副将軍」は虚構または飾りであった
『水戸黄門』が人気だった背景、一揆が幕府を倒せなかった歴史
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