母親の年齢が25歳から30歳初めの母親に頭の良い子が生まれる率が高いことも知りました。
25歳・28歳・31歳の時にもったいないような男児が授かり、私の産児計画は物の見事に理想の形で実現し、願いがかなえられました。
運の強さはこの辺りでも感じ取れていました~
すごいでしょ?
先祖の守りのおかげだと深く感謝しているのですよ~
副担任の見習い期間もたっぷりと4年間いただくことが出来たし、満を持して意欲に燃えて担任時代へと突入していきました。
1年2組の新入生の担任です。
入学式での点呼の読み間違いは許されないし、名前の確認を一人ずつにしていました。
登校してきた新入生は何組になっているか発表を確かめて各教室に入り、静かに入学式の始まる時を待っているのです。
まもなく式場に入場となるのに、一人の女子がまだ姿を見せていないのです。
学年主任にその旨連絡をいれました。
しばらくして返事が届いたのですが、父親の急死でこの日が告別式の日だったそうです。
なんだか前途を暗示するかのような極端な出来事に、暗澹たる気分に陥ってしまうのでした。
舞い上がるような祝福の日が最愛の父親とのお別れになろうとは~
Hの気持ちを思うと、言葉もなく重く暗い思いになってしまいました。
Hとはまだ初対面の挨拶も交わしていなかったけど、縁あっての学級担任という出会いなのだから~と、午後からの告別式に参列してきました。
両親と弟の4人家族で大手の新聞社に勤務していた父親は家族の幸せの象徴でした。
突然の別れが入学式の日に重なるなんて・・・
こんなむごいことがあるものなのかと残されたH家族がかわいそう過ぎて、今もそのときの気持ちをまざまざと思い出します。
Hの家庭訪問時に母子家庭になってしまわれたので、就学援助費の申請用紙も持参して、「失礼とは存じますが、今申請する時期ですのでお勧めさせてもらっているのです~」と恐る恐る出してみました。
家の中の経済状態など何も分からないのに、「失礼ね~!」とプライドを傷つけられたとお叱りを受けるかも知れないと冷や冷やものだったのです。
すると、母親は、「こんな時のための保険のような福祉制度の一つなんでしょ?
申請させていただきますわね~」と涼しい回答をなさったのです。
天晴れな母親だと感じました~
聡明なHである証拠を見た思いがして、長いお付き合いが始まりました。
山の学校の校区が父親の実家でした。
旧い大きな資産家ですから、名前は私も知っていましたから、よけいに心を開いてくださったのでしょう。
弟と3歳違いなので、Hが卒業した翌年に入学してきたし、また、2年生で弟の担任になりました。
その時は駅前の大きなマンションに住いが変わっていましたが、堅実な生き方をなさっておられ、母親もお仕事をもっておられました。
ご縁の深さを喜び合ったものです
Hのその後は私学の法科に授業料免除の特待生で入り、弁護士になるつもりかな?と思っていたけど、県立高校の英語教師として自立していきました。
入学願書を持って高校に行くと、Hに会うことが出来、我が子に会えたような懐かしさを覚えたものです
学級担任を終え、47歳で学年主任となり、憂鬱な立場の毎日となりました。
学級王国を作るのが得意だった私が、学年全体の企画運営をしなければならず、現場を離れたような寂しさと空しさを感じていたのです。
学級で問題が起きると、その学級担任とともに、夜家庭訪問に出向いて行き、謝りをしなければならず、他力本願のような生活に何も楽しみを見出せなかったのです。
「この3年間の学年主任が済んだら退職しよう~!」と内心で決めていた時期がありました。
49歳の時でした。
近くの文化会館に『朗読の夕べ』という催しがあることを知り、チケットを購入しました。
チケット売り場にいたのがHの母親だったのです。
偶然の出会いでしたが、うれしい気持ちになっていました。
当日勤めを終えて会場に行き、指定席を見つけてパンフレットを読んでいるところに、
「M先生!」と若い女性に声をかけられました。
明日に続く~
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