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母は出かける時よりも元気な顔で帰ってきました~
一日頑張ってきたと言うことが自信となって表情に出てくるのだろうと思います。
「なにをしてきたの~?」ときいても、「さあ、忘れたわ~」と笑っています。
連絡帳を見ると誕生日会があったそうです。
以前のマサエさんなら必ず歌ってくれていたのに、昨日は声を出してないから歌えないと言って辞退なさいましたとありました。
度胸のある人で、物怖じしなくってどんな小さな会合の時でも賑わいに一曲と歌っていました。
奥飛騨慕情や長良川艶歌やさざんかの宿が十八番でした。
母は吼山流という流派で、奈良の家族は関心流という詩吟でしたから、息子を相手に同じ漢詩をどう吟じているのか披露し合っていました。
おそらくデイサービスに5年くらい前から参加しているので、マイクを握って放さない一人だったことは周知の事実です。
今もカラオケが好きだし、てっきりマイクを持たされるとなにかやると思っていたので、辞退したということがむしろオドロキでした。
遠慮と言うかわきまえができたというか、ほっと安心できました。
もともと人見知りの強い私でしたから、13歳ころまで人前で声を出すことは大の苦手だったのです。
学校で順番に質問が回ってきたときだけは蚊のなくような小さな声で答えていたようです。
手を上げて積極的になればもっと伸びますのに~と三者懇談でよく言われていました。
中一の時、弁論大会に出る学級代表に選ばれてしまい、気絶しそうになって職員室の担任に断りに行ったけど、新米担任は俺が決めたのではないから~と相手にしてもらえませんでした。
家に帰って母に言うと、壇上に上る途中で倒れてしまっても責任を果たそうとしたことは分かってもらえるから、言いたいことを原稿にまとめ暗記してしまえば大丈夫だよ~と背中を強く押してくれました。
“平和への道”と題して戦後10年過ぎた時だったので、疎開してきた体験を交えながら弁論大会に死に物狂いで出ました。
2位に入賞して、それから毎年高校生になっても選手に選ばれ、たいてい1位をもらえていたのです。
小さな150センチ足らずの女子が堂々と暗記した原稿を口にするから、落ち着いた雰囲気に映っていたのかもしれません。
それ以来今日まで、人前で話すことを快感にさえ覚え、私の特技になりました。
気絶するまではお前の務めだと背中を押してくれた母の強さが、私を目覚めさせてくれたと今は感謝できます。
度胸の良さを娘に持たせてやるチャンスだと思ったのでしょうか~
ライオンは谷底に子どもを突き落とすと聞きました。
這い上がっておいで~と
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チャンスを物にしてやれた母の教えは効を奏しました。
社会人になって人前でものが言える力をこの時に身につけたと大きな人生の転機だと思えます。
もう、すっかり母は忘れていることでしょうけど~
今朝はそんな昔のことを思い出しています
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