(写真は、レトロな町並みのペリーロード)
昨年の年末に、西伊豆の堂が島温泉に1泊した
翌朝の話しです。
堂が島から路線バスで約1時間、伊豆半島の
山間部を抜けて、伊豆急下田駅に戻って来ました。
伊豆・下田は、これまで3回くらい来ていますが、
主な目的は、ロープウェイや遊覧船に乗ったり、
金目鯛などの新鮮な魚を食べたりすることでした。
しかし、今回、歴史に目覚めた私は、これらの
娯楽施設には見向きもしないで、ひたすら下田の
町中を歴史散策します。
下田の歴史を代表するのが、幕末の黒船来航です。
幕末、下田の港にはペリー提督率いるアメリカの
黒船の艦隊が来航しました。
そしてここ下田で、日米和親条約(下田条約)が
結ばれ、開国の舞台となりました。
上の写真は、伊豆急下田駅前の「黒船・
サスケハナ号」の模型です。
サスケハナ号は、ペリー提督率いる黒船艦隊の
中でも一番大きな黒船だったそうです。
伊豆急下田駅をスタートして、どこかレトロな
雰囲気の漂うマイマイ通りをペリーロードへ
向かいます。
5分ほど歩くと写真の「宝福寺」があります。
(お吉の写真:お吉記念館)
宝福寺の境内には、「唐人お吉(とうじん
おきち)」の眠る墓があります。
(もとの「お吉の墓」)
(水谷八重子によって新しく建てられた現在の
「お吉の墓」)
お吉は、下田で評判の美人の芸妓でしたが、幕府
の命で、下田に黒船で来訪していたアメリカ
総領事・ハリスのもとへ、心ならずも侍妾として
奉公にあがらせられます。
当時は攘夷の風潮もあり、世間の人々からは、
唐人(とうじん)として偏見の目で見られ、
罵声を浴びせられました。
お吉は、その後、凄まじい偏見と差別を受け
ながら、苦悩の生涯を送り、51歳の時に、
下田の稲生川で溺死しました。
宝福寺は、見学無料ですが、その奥にある「お吉
記念館」は有料(400円)で、お吉のかんざし等
の遺品が展示されています。
また、この記念館には、山内容堂と勝海舟との
謁見についての資料も展示されています。
土佐藩主・山内容堂は、江戸から上洛する際に、
海が荒れ、ここ宝福寺に投宿していました。
そのとき、幕府軍艦奉行・勝海舟の入港を聞き、
宝福寺に酒席を設けました。
海舟は、その酒席で、容堂に、坂本龍馬の脱藩の
罪の許しを乞います。
容堂は、海舟が、酒を飲めないのを承知のうえで、
「ならば、この酒を飲み干せ」と、朱の大杯を
差し出しました。
ためらうことなく飲み干した海舟は、容堂に
赦免の証を求めます。
容堂は、赦免の証として、自らの白扇に、瓢箪の
絵を描きました。
(容堂と海舟の謁見の間:お吉記念館)
(勝海舟が飲み干した朱の大杯:お吉記念館)
(山内容堂が描いた瓢箪の絵:お吉記念館)
宝福寺の隣は、前頁の写真の「大安寺」です。
この境内の奥に、写真の「薩摩十六烈士の墓」が
ありました。
説明板によると、1688年、島津藩の船が、
将軍家献上の御用材を積んで江戸に向かう
途中、大風に遭い、止むを得ず、材木の
一部を海に捨てて下田に入港しました。
不可抗力だったにも拘わらず、15歳の少年も
含め乗組員16名全員が、御用材を捨てた責任
をとって潔く切腹しました。
不可抗力だったからと見苦しい言い訳をして、
誰も責任を取らない東●電力の経営陣に聞かせて
あげたい話しでした。
大安寺を出て、大通りに突き当たって右折すると、
写真の「下田開国博物館」がありました。
(1,200円)
館内には、開国当時の下田の様子を描いた絵や、
江戸時代の下田の街の夜景のジオラマ等が
展示されています。
下田開国博物館を出ると、その裏に、次頁の写真
の「吉田松陰拘禁の跡」碑がありました。
吉田松陰は、ペリー艦隊での密航を企てましたが
失敗して自首、下田奉行所によってこの場所に
拘禁されました。
この吉田松陰の拘禁の模様は、上の下田開国
博物館で再現されています(撮影禁止)。
更にその近くに、下の写真の「欠乏所跡」碑が
ありました。
ここで、事実上の貿易が開始され、航海上必要な
薪・水・食料・石炭の他、漆器・織物なども
売り渡されました。
マイマイ通りに戻り、その突き当たりにあるのが
写真の「了仙寺」(りょうせんじ)です。
ペリー提督一行は、ここ了仙寺で、日米和親条約
(下田条約)を締結しました。
(唐人お吉の籠)
了仙寺の境内には、MoBS黒船ミュージアム
(500円)があり、ぺりー直筆の公文書や
黒船来航絵巻などを展示しています。
(撮影禁止)
ここ了仙寺が、下田の人気スポット「ペリー
ロード」のスタート地点になります。
下田に入港したペリーが、条約締結のために、
この道を了仙寺まで歩いたので「ペリーロード」
と名付けられました。
ペリーロードは、柳並木が立ち並ぶ平滑川に沿う
約700メートルの石畳の小径で、レトロな異国
情緒が漂います。
ペリーロードの両側には、幕末から明治、大正
時代にかけて建てられた石造りの蔵や、なまこ壁
の商家を利用した、レトロなカフェや土産物屋が
建ち並びます。
ペリーロードの脇の急な石段を上ると、写真の
「長楽寺」がありました。
ここで、日露和親条約が締結されました。
昼過ぎになり、お腹が空いたので、ペリーロード
沿いの写真の「志満田」で、金目鯛の刺身と
煮つけを食べました。
ペリーロードの突き当たりには、写真のなまこ壁
の「旧澤村邸」がありました。
(無料で一般公開中)
ペリーロードを抜けると、写真の「ペリー艦隊
上陸記念碑」がありました。
1854年、条約締結により即時開港となった下田
に、艦隊が次々と入港しました。
その時に、ペリー艦隊が一番始めに上陸したのが、
この記念碑の辺りだったそうです。
駅へ戻るため、ペリーロードを戻りながら右の道
へ入ると、お吉が営んでいたという、次頁の写真
の料亭「安直楼」(あんちょくろう)跡があり
ます。
明治15年、お吉40歳の頃に、再起を図って
ここ安直楼で小料理屋を開業しますが、差別や
偏見が強く、客足も遠退き、お吉は酒に溺れます。
そして、4年ほどで廃業、明治24年、豪雨の夜に
入水自殺しました。
干物横丁を抜けて、伊豆急下田駅へ向かいます。
黒地に白い碁盤目が斜めに交差する模様の
「なまこ壁」が散見されます。
漆喰の形がなまこに似ているので「なまこ壁」と
呼ばれるそうですが、防火、防湿のために、
土壁に平瓦をはめ込んで、継ぎ目に漆喰を
盛り上げて固めた壁です。
お土産に、コックさんの帽子の形をした写真の
「下田アンパン」(180円)と、「金目鯛最中」
(170円)を買いました。
伊豆急下田駅の売店で写真の駅弁「金目鯛押寿司」
(1,300円)を買い、踊り子号の車内で食べ
ながら横浜に帰りました。
伊豆急下田 →(踊り子号 )→ 新横浜