(写真は、戊辰戦争の悲劇で知られる「二本松
少年隊」像、背景は二本松城。)
上田城、松代城と、お城が続いたので、ついでに、
「奥の細道」バスツアーで訪れた”奥の細道沿い
のお城”について、”お城シリーズ”として、
このあと続けて一気にご紹介します。
奥州街道沿いには、有名なお城が多いのですが、
不思議なことに、「奥の細道」には、お城の記載
は無いし、芭蕉は、奥州街道沿いのお城に立ち
寄っていません。
不思議な気もしますが、でも、よく考えてみれば
当たり前のことかも知れません。
我々は、城下町に行くと、先ず、城跡の天守跡
から、城下町を見下ろして見物しますが、当時は、
お殿様しか上がれない天守から見物するなんて、
とんでもない話しですよね。
江戸時代には、お城には、お殿様と家来が住んで
おり、一般人の芭蕉が、のこのこと天守や御殿に
入れる訳がありません。
ましてや、忍者の里である伊賀上野出身で、もと
武士の芭蕉が、全国を歩き回ったため、当時から
”芭蕉忍者説”が囁かれ、芭蕉の動きを警戒した
藩もあった様です。
一部、芭蕉と交流のあった城代家老のところに
立ち寄ったりはしていますが、当然、それは自宅
であり、お城ではありませんでした。
”奥の細道:お城シリーズ”の初回は「二本松城」
です。
「霞ヶ城」または「白旗城」とも呼ばれる「二本
松城」は、福島県の二本松の市街地の北に位置し、
標高345メートルの白旗が峰の麓の「居館」と、
山頂付近の「城郭」からなる「平山城」です。
(国の史跡)
1442年頃、二本松満泰(畠山満泰)が、最初に、
二本松城を築城しました。
1585年、当時、米沢城主だった伊達政宗は、
二本松城に籠城する二本松氏を猛攻撃、翌年、
二本松氏は降伏、滅亡しました。
伊達政宗は、この二本松城の攻略を足掛かりに、
その後、奥州制覇を進めて行きます。
豊臣秀吉の小田原攻めのあと、1591年に、伊達
家が岩出山城に転封されたため、二本松城は、
会津若松の城主となった蒲生氏郷の支城となり
ました。
江戸時代に入り、1643年、白河小峰城から、
丹羽長秀の孫・光重が、10万石で二本松城
に入城、以後、明治維新まで、二本松城は
丹羽氏の居城となりました。
1868年の戊辰戦争に際しては、「二本松藩」は、
「奥羽越列藩同盟」に加盟して、新政府軍と
戦いました。
そして、二本松の藩兵の大半が、二本松城を出て
白河口に出撃した隙を突かれ(白河口の戦い)、
新政府軍が、二本松の城下に殺到、僅か一日の
戦闘で二本松城は落城してしまいました。
(二本松城の攻城戦)
この二本松城の攻城戦では、7月26日に、手薄に
なった二本松城から、「二本松少年隊」と
呼ばれる僅か12歳~17歳の少年兵62名が出陣
します。
二本松少年隊は、隊長の木村銃太郎に率いられて
奮戦しますが、多くの少年が被弾、負傷し、
隊長の銃太郎も副隊長の介錯により果て、結局、
16名が戦死しました。
少年隊の12歳の久保豊三郎と、15歳の久保
鉄次郎は兄弟であり、兄の鉄次郎は病弱であり
ながらも、「弟が行ったのに、兄の私が、
おめおめと寝ている訳にはいきません」
と言って母親を振り切り、弟のあとに続きました。
その後2人は、負傷して城下の称念寺に運ばれ
ましたが、お互いの消息を知らないままに、
その年の11月1日に弟の豊三郎が、そして
12月6日に兄の鉄次郎が息を引き取りました。
写真は、戊辰戦争で若い命を散らした「二本松
少年隊顕彰碑」(二本松少年隊群像)です。
碑が建てられた二本松城内の場所では、戦いの
直前まで、少年達が鉄砲の稽古をしていました。
戊辰戦争の少年隊の悲劇は、会津の白虎隊だけが
有名になりましたが、若さから言えば、こちらの
二本松の方がもっと悲劇だったんですねえ。
このときの攻城戦で、二本松城の建物の多くが
焼失してしまいました。
そして、藩主の丹羽長国は、米沢に逃亡し、降伏
しました。
しかし、二本松藩は、石高が半減されたものの、
存続は許されました。
その後、明治5年の廃城令により、残る建物も
全て破却されてしましました。
現在は、「霞ヶ城公園」として整備されており、
石垣と再建された箕輪門(みのわもん)が
あります。
この公園は、日本さくら名所100選にも選定
され、また、秋の紅葉と「菊人形展」でも
有名です。
奥の細道・バスツアーの我々は、先ず、城の
入り口にある写真の「戒石銘」(かいせきめい)
へと向かいました。
1749年に、 五代藩主の丹羽高寛が、藩儒学者の
岩井田昨非(いわいだ さくひ)の進言により、
藩庁前の自然石に、藩政改革と綱紀粛正の指針を
刻ませたのが「戒石銘」です。
石碑には、「お前達・藩士の棒給は、領民の汗と
脂(あぶら)の結晶である。常に感謝し、領民を
労わなければならない。これに反して、領民を
苦しめれば、必ず、天の怒りに触れるであろう。」
との趣旨が刻まれています。
戒石銘から、「箕輪門(みのわもん)」と「附櫓
(つけやぐら)」へと歩いて行きます。
戊辰戦争で焼失していた箕輪門と附櫓は、
昭和57年に復元されました。
10万石の大名の威容を示す箕輪門の高石垣は、
10メートルもあります。
上の写真は、箕輪門の脇にある「内藤四郎兵衛
戦死の地」碑です。
四郎兵衛は、二本松城の城門を開いて敵勢に
斬り込み、 壮絶な戦死を遂げました。
上の写真は、箕輪門を裏側(内側)から撮影した
ものです。
箕輪門から三ノ丸への入口は、枡形になって
いました。
我々は入園しませんでしたが、三ノ丸跡では、
有名な菊人形展をやっていました。
三の丸の西側は、自然の地形を生かした庭園です。
趣きのある庭園の一角には、上の写真の
八千代の松と呼ばれる樹齢300年の笠松が
あります。
上の写真の「霞池」の脇の坂道を「るり池」へと
上って行きます。
写真は、坂道の途中の「洗心亭」で、城内の庭園
にあった茶室の一つの「墨絵の茶屋」です。
三の丸西側の庭園の見学を終えて、本丸跡へ
向かいますが、本丸跡は、ここからだいぶ離れて
いるので、二本松城の尾根伝いに、奥の細道・
バスツアーのマイクロバスで向かいます。
本丸脇の駐車場でマイクロバスを降りて、下の
写真の土塁、空堀を経て、本丸跡へ向かいます。
白旗が峰の山頂の本丸は、平成7年に、天守台
や本丸石垣が整備されました。
次頁の写真の本丸直下の野面積みの「大石垣」は、
安土城の石垣を積んだ穴太衆(あのうしゅう)と
呼ばれた優れた石工集団によって積まれたそう
です。
想像以上に高く立派で見事な石垣です!
天守台の脇に、戊辰戦争による二本松城の落城に
際して、自刃した城代・丹羽氏と勘定奉行・
安部氏の前頁の写真の供養碑がありました。
この立派な石垣を眺めていると、二本松城を出て
出撃せずに、二本松城に籠城して戦っていれば、
新政府軍の攻撃にも十分に持ちこたえられた
のではないか、という気がしてきました。
我々のマイクロバスは、二本松城を出て、城下の
「大隣寺」(だいりんじ)へ向かいます。
大隣寺には、二本松藩主の丹羽氏の墓地や二本松
少年隊の墓などがありました。
上の写真の中央の大きな石碑が「戊辰戦争
殉職者群霊塔」で、両脇に、二本松少年隊隊長・
木村銃太郎、副隊長・二階堂衛守と、少年隊
戦死者14人の供養塔が建立されています。
少年隊の墓の隣には、戊辰戦争で戦った仙台藩
と会津藩の下の写真の墓がありました。
(4代・丹羽秀延の墓)