(写真は、白石城)
”奥の細道:お城シリーズ”の第2回は
「白石(しろいし)城」です。
「白石城」は、宮城県の南端の白石市の市街地に
あります。
奥州藤原氏がその地位を確立させた「後三年の役」
の戦功により、1083年、白石の地を賜った苅田氏
が、ここ白石に築城したのが始まりです。
1600年の関ヶ原の戦いの直前に、伊達政宗が
白石城を攻略し、政宗の家臣「片倉小十郎」が
「白石城」の城主となります。
この「片倉小十郎」は、「大坂夏の陣」で、西軍
の「後藤又兵衛」の軍を打ち破り、「真田幸村」
と激戦を繰り広げました。
そして、大阪城落城の前夜、自らの戦死を覚悟
した真田幸村は、敵方の片倉小十郎の人柄を
見込み、五女の阿梅(おうめ)と、隠し子の大八
を、密かに小十郎に託しました。
阿梅と大八を幸村から託された「片倉小十郎」は、
「白石城」の二の丸で、秘密裡に二人を養育
しました。
阿梅は、長じて片倉小十郎の後妻となり、大八は、
伊達藩士に取り立てられました。
その後の「一国一城令(1615年)」の際、例外
として、仙台藩は青葉城と「白石城」の2城の
保有が許されました。
以降、明治維新までの260余年もの間、伊達家の
重臣片倉氏の居城として存続しました。
奥の細道・バスツアーの我々は、白石市内の
中心部でバスを降りて、白石城へ向かいます。
「白石城」は、現在の白石市の中心部にあり、標高
75メートルの丘の最頂部に本丸を設け、中段に
南ノ丸など、平地に三ノ丸などを配置した
「平山城」です。
明治維新後に、全ての城郭が壊されてしまい
ましたが、平成7年、三階櫓(天守閣)と大手門
が復元されました。
上の写真は、白石城の二の丸跡に建つ白石市出身
の明治時代の横綱「大砲(おおづつ)」の銅像
です。
白石城の裏手の沢端川沿いの道を進むと、写真の
中級藩士だった「片倉家 中武家屋敷」(旧
小関家)がありました。
旧小関家の建つ後小路(うしろこうじ)は、
三の丸の外堀である沢端川に面した武家屋敷が
連なる町並みでしたが、現在は静かな住宅地
です。
白石城周辺の見学を終えて、白石の市街地を散策
します。
上の写真の様に、城郭の一部の門が、市内の寺院
の門として現在も使われている等、白石市内に
白石城の面影を留めています。
写真は、當信寺とその境内にある真田幸村の
五女の阿梅(おうめ)と隠し子の大八の墓です。
炎上し落城する大阪城から、敵方の片倉小十郎に
救出された阿梅と大八の数奇な運命に思いを
馳せます。
バス旅行では、お昼は、お城の近くの食堂で、
写真の「白石うーめん」を食べます。
白石うーめんは、見た目は短いそうめんの感じ
ですが、食用油を使用しないので、胃に優しく
消化も良いそうです。
ps.「戊辰戦争」と「白石城」
「戊辰戦争」では、新政府は、仙台をはじめとする
奥羽諸藩に、会津藩の討伐を命じます。
これに対し、奥羽諸藩は、交渉で会津を戦禍から
守る方策を検討しようと、奥羽諸藩の重臣が
白石城に集まります。
そして、いよいよ、”品格に欠ける最も下劣な
長州人・世良修蔵”(せら しゅうぞう)の登場
です。
世良さえいなかったら、そもそも東北地方での
全面的な戊辰戦争は起きず、二本松少年隊の悲劇
などはなかったであろう、と言われています。
新政府は、奥羽鎮撫軍を率いる総督と参謀「世良
修蔵」を仙台に派遣します。
白石城の奥羽14藩は、「会津藩への寛大な処分」
を願う嘆願書を、仙台の総督府に提出して、
新政府軍との交渉に入ります。
このときの新政府軍の実権者は、「世良修蔵」
でした。
( 因みに、大河ドラマ「八重の桜」の世良修蔵役
は、コワモテ俳優の小沢仁志でした。)
当時、長州藩は、内紛を繰り返していたために
人材不足に陥り、世良の様な小物を参謀に
据えざるを得ませんでした。
世良が鎮撫軍の参謀に就任したとき、仲間の長州
藩士すら、「世良とは、ひどいのが行くな」と、
奥羽越列藩に同情したそうです。
世良は、尊大、好色で、昼間から酒に酔いつぶれ、
仙台の人々に無礼や狼藉を働きます。
このため、世良の部下の鎮撫軍の兵士達の規律も
乱れていました。
世良の無礼の1例として、仙台藩主・伊達慶邦が、
交渉のため、新政府軍の総督府に挨拶に来た時の
話しが残っています。
世良は、藩主を下座に座らせ、自分は上段に
座ったまま足を組んで答礼も返さず、おい中将!
と藩主を呼び捨てにしたそうです。
会津藩救済の嘆願書を受け取った総督は、嘆願を
受け入れたいと考え、嘆願書を京都の太政官に
送って指示を仰ごうとします。
しかし、世良は、この動きを封じ、嘆願書を
握りつぶして、徹底抗戦を主張しました。
更に、世良が同僚の参謀に宛てた「奥羽を皆敵と
見て、武力をもって一挙に討伐する」との密書が、
運悪く、仙台藩士の手に渡ってしまいます。
当時、仙台藩は、鎮撫軍の総督は、嘆願を受け
入れる方向で動いているとの情報を得ていました。
このため、世良の密書の内容に、仙台藩は激高
します!
これまでの世良の傍若無人な振る舞いが、純朴な
奥州人の神経を逆なでにし、遂に、人々の怒りが
爆発します。
そう、奥羽越列藩同盟の運命を決める大事件が
起きたのです!!
これまで世良の横暴にひたすら耐え忍んできた
仙台藩士が、遂に、福島にいた世良を襲撃して
暗殺してしまいました!!
世良は、旅館で酒を飲み遊女と寝ていたところを
襲撃されます。
ピストルで反撃しますが不発、捕えられ命乞い
しますが、斬首されました。
この事件により、東北の平和を望んでいた奥羽
諸藩は、新政府と敵対せざるを得なくなりました。
やむを得ず「奥羽越列藩同盟」(白石同盟)を
結成して、全面戦争に突入して行きます。
当初、鎮撫軍の目的は、あくまで朝敵・会津藩
だけの討伐でした。
東北地方全域に戦線を拡大するつもりは全く
無かったのです。
これに対し、奥羽越列藩同盟は、会津を攻める
ことに躊躇している状況でした。
何とか会津藩を救おうと模索している状況の中で、
この世良暗殺事件が起きてしまったのです。
最近は、世良修蔵を擁護する意見も色々と出て
います。
また、戊辰東北全面戦争は、いずれ避けられ
なかった戦だという見方もあります。
しかし、戊辰東北戦争は、世良修蔵という小物の
長州人一人が、”直接の引き金”となって
起こした戦争だったことに変わりはありません。
戊辰戦争の敗北後、仙台藩は28万石に削封され、
260年余り白石を治めてきた片倉家は領地を失い
ました。
家屋敷と生活の糧を失った白石家の家臣達は、
北海道札幌の白石地区へ入植します。
そう、現在の「札幌市白石区」は、白石の片倉家
の家臣達が入植した地なのです!
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