ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(65:愛知川) 滋賀県愛知郡   11km 2016.4.19


(写真は、平将門の首を洗ったので水が濁って飲めなくなったという不飲川に掛かる「不飲橋」) )
宇曽川にかかる「歌詰橋」を渡ると愛知川(えちがわ)宿に入ります。

歌詰橋を渡り終えた場所に「歌詰橋」の由来が書かれた案内板がありました。

それによると、
東国で「平将門」の首を上げた藤原秀郷が、ここまでやって
来たときに、目を見開いた将門の首が追いかけて来ました。
そこで、秀郷が将門の首に、”歌を一首!”と言うと、歌に
詰まった将門の首は、この橋詰に落ちました。

以来、この橋は「歌詰橋」と呼ばれる様になりました。

う~ん!、平将門は、歌に詰まるほど教養がなかった、
という事なのでしょうかねえ?


橋を渡って暫く歩くと、「沓掛」(くつかけ)集落に入って
行きます。

やがて、道が左右に分かれますが、中山道の矢印に従って右の
道を進むと中宿に入ります。



そして「中山道 愛知川宿」入り口のゲートをくぐります。

ゲートの少し先に上の写真の「愛知川宿北入口」の石碑が
ありますので、多分、正式にはここから宿場が始まって
いたのでしょう。

「愛知川宿」は、いわゆる”近江商人発祥の地”の一つで、
江戸時代には近江商人達の行き来で賑わっていました。




しかし、現在は、僅かに蔵が残る程度で、宿場町の面影は
ほとんどありません。



更に進むと、「親鸞聖人御旧跡」を示す道標があり、その奥
には、旅の途中で親鸞聖人が宿泊したという「宝満寺」が
あります。



親鸞聖人の道標の先に「本陣跡」と八幡神社があります。



八幡神社の常夜灯の脇に「高札場跡」の石碑があり、この辺り
が愛知川宿の中心でした。




高札場跡の先には、上の写真の元旅籠の料亭「竹平楼」が
あります。

竹平楼の先には、「不飲川」(のまずがわ)と呼ばれる小さな川が流れています。
「不飲川」の名前は、この川の上流で「平将門」の首を洗った
ので、水が濁って飲めなくなった、という話に由来します。
怖っ~・・・
不飲川を渡ると、直ぐその先に、「中山道 愛知川宿」の
ゲートがあり、「愛知川宿」は、もう、ここで終わりです。


「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんは、愛知川宿と次の武佐宿の間にある「間の宿
(あいのしゅく)」の「清水が鼻」まで来たところで夜に
なってしまいます。
仕方なく、むさ苦しい小さな木賃宿に泊まります。

亭主「お二人は、荷物がないうえに汚い身なりなので、お伊勢
   さんの”抜け参り”の「柄杓(ひしゃく)ふりの乞食」
   (注)だと思いましたよ。大変、失礼しました。」
(注)柄杓ふりの乞食:江戸時代には、一生に一度に限って、
   雇人や子供が、主人や親に無断で、伊勢神社参詣の旅に
   出る事を許される習慣がありました。
   これを”抜け参り”と言い、手に柄杓を持って、銭や米
   を入れて貰いながら、乞食の姿で旅を続けました。

馬鹿にされた弥次さんは、仕返しをしてやろうと、拾った石を
紙に包んで金に見せかけ、小銭入れの財布の中に入れます。

弥次「おい、亭主、明日の朝までこの小銭入れを預かって
   くれ。」
亭主「ヤァヤァ、こんな大金を預かったら、心配で今夜は
   眠られないからダメだよ。」
弥次「いや、金を持って寝るのは不用心だから預かって
くれ。」
亭主「それでは、この天井から釣った仏壇の中に入れておく
   ので、明日、取り出して出掛けて下さい。」

その夜、木賃宿の夫婦は寝ながら話をしています。

亭主「夕食で、茗荷(みょうが)料理をたくさん食べさせた
   ので、明日の朝は、多分、仏壇の金を置き忘れて
   出掛けるよ。」
女房「それでは、質に入れている着物を出してきますね。」
(注)茗荷料理:江戸時代には、茗荷を食べると忘れっぽく
   なると信じられていました。

翌朝、弥次さん喜多さんは、世話になった礼を言いながら宿を出て行きました。

女房「アレッ、仏壇の金をいつのまにか持って行ってしまい
   ましたよ・・・」
亭主「金は持って行ったが、忘れて行った物があるぞ!」
女房「何を忘れて行ったんですか?」

亭主「宿賃を払うのを忘れて行った・・・」

弥次さんは、仕返しが成功して笑いが止まらず、街道を歩き
ながら一句、
”宿賃を 忘れて来しは 名物の 冥加至極(みょうが
 しごく)の しあわせしあわせ”

(ここの名物の茗荷のおかげで、宿賃を忘れて来たのは、神仏
 の冥加のおかげで幸せだ。
 冥加は神仏の助けのことで冥加と茗荷を掛けています。)



愛知川宿を出ると、中山道は国道8号線と合流、ダンプの風圧に耐えながら歩いて行きます。







やがて、 左手に祇園神社があり、その向こうは、一級河川「愛知川」(えちがわ)です。





広重の「木曽街道69次乃内 恵知川(えちがわ)」は、この
「愛知川」に掛かる「無賃橋」を描いています。
浮世絵の右端には、「むちんばし、はし銭いらず」と書かれた木柱が立っています。

中央は、深編笠を被った白装束の2人の虚無僧と、赤い上着を着た女の牛飼いです。
そして、右手は、葛籠(つづら)を背負いその上に赤子を
乗せた男です。


「愛知川」の橋を歩き渡り終えると、直ぐに左折して近江鉄道
の踏切を渡り、常夜灯の先を右折して「五個荘」(ごか
しょう)の町に入ります。


少し歩くと下の写真の道標があり、「右 京みち  左いせ ひの 八日市 みち」とあります。

左は、八日市・日野を通り、東海道の土山宿を経由して、伊勢
へ参詣した道で、公卿に代わって代参を勤める人々が使用した
ので、「御代参(ごだいさん)街道」と呼ばれたそうです。

やがて、下の写真の”太神宮”と彫られた常夜灯の前で道は
左右に分かれますが、ここを右折して進みます。

突当りを左折し、少し歩くと五個荘町役場があり、その前
には、下の写真の様に松が1本だけポツンと残っています。



その先は、幕末から続く”鋳物師”の「西澤家」で、玄関
には、上の写真の様に、大きな梵鐘(ぼんしょう)が
置かれています。


やがて水田地帯になり、その水田の脇に「左 いせ 
右 京道」と刻まれた大きな常夜灯が立っています。



更に進むと、呉服繊維商として京都大阪で活躍した上の写真
の「市田庄兵衛」の京町屋風商家の本宅がありました。



暫く歩くと国道8号に合流しますが、その合流点には上の写真
の「てんびんの里」の大きなモニュメントがありました。

この辺りの「五箇荘」は、「てんびんの里」とも呼ばれ、
財をなした近江商人の豪邸が並んでいることで知られて
います。
近江商人は、天秤棒(てんびんぼう)を担いで、近江の産物を
他国へ売り歩き、その他国の品を天秤棒で担いで帰り、上方で
売りさばいたそうです。

中山道は、直ぐに国道8号から右折して細い道を進み、「清水
鼻」の集落に入ります。






ここには、上の写真の「清水鼻の名水」があり、当時、旅人の
喉を潤していましたが、今も綺麗な清水が流れ出ています。
清水鼻は、当時は立場として賑わい、前回のブログでは、
弥次さん喜多さんも、ここの木賃宿に泊まり、宿賃を踏み
倒しました・・・



清水鼻の名水から、更に進むと三叉路があるので、そこの左の
道に入って行くと、やがて国道8号線に合流しました。



国道8号沿いに、新幹線と並行して暫く歩き、新幹線の高架を
くぐると、左手に奥石(おいそ)神社の標識があるので、標識
に従って8号線を左折します。



やがて、右手に奥石(おいそ)神社の参道があり、参道を進む
と鳥居の先に、織田信長が寄進したという「奥石神社」の本殿
(国重要文化財)がありました。

神社の周りは、「老蘇(おいそ)の森」で、昔は現在の数倍の
広さがあったそうです。

老蘇の森の入口に、「中山道 陣屋小路」の石柱があった
ので、矢印に沿って進んでみると、下の写真の江戸時代の
「根来陣屋」の跡がありました。

その説明板によると、 鉄砲で武装し傭兵集団として活躍した
「根来衆」(ねごろしゅう)は、家康の家臣となりました。
数々の戦功を立てた根来衆は、1633年、ここに領地を拝領
しました。

根来陣屋から中山道へ戻り先に進むと、左手に上の写真の
「杉原医院」があり、案内板によるとこの医院の裏手に
「杉原氏庭園」(県指定文化財)があるそうです。


更に、中山道をどんどん直進して行くと、やがて、小さな川の
横に、上の写真の「泡子延命地蔵御遺跡」がありました。
その説明板によると、茶店の娘が、旅の僧に恋し、僧が飲み
残したお茶を飲んだところ、身ごもり男の子を生みます。
三年後に、再びこの僧が現れ、僧が子に息を吹きかけると、
子は泡となって消えてしまいました。
この話は、醒ヶ井宿の「西行水」にあった「泡子塚」と同じ
内容で、ここでは少し違って伝わっている様です。



中山道は、ここから、水田地帯を2キロほど歩いて行くと
武佐宿です。

愛知川宿から武佐宿までは、約11キロです。


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コメント一覧

更家
中山道と東海道のゴール
私も、最初に「愛知川」(えちがわ)の字を見たときに、あっ!「愛知」(あいち)だ!、と叫んでしまいました。

そうですか、コスモタイカ゛ーさんも、やはり3択で迷ったんですね。

東海道の話しですが、JR東日本主催「東海道と中山道の楽しみ方講座」の講師の説明だと、
確かに、家康が東海道を整備したときは、京都までの”53次”でした。
これは、当時、未だ大阪には敵方の豊臣秀頼が頑張っており、大坂は危険地帯だったので、終点を京都に止めたのだそうです。

しかし、大坂の陣で豊臣が滅んだその年に、東海道は大阪まで伸ばされて”57次”になりました。
従って、広重の時代も含めて、江戸時代の大部分の期間は、東海道”57次”だった、というのが講座の趣旨でした。

「小関越」は、お互いに、今後のテーマですね。
コスモタイガー
中山道のゴール
http://blog.goo.ne.jp/cosmotiger_1968
愛知川宿!
この「愛知」の字を見ると、名古屋人の私は、つい「あいち」と呼びたくなります。
もちろん知識として「えちがわ」であることは存じてますが・・・。

東海道57次は、私もブログで書き綴っている最中だったりしますが、確か最初は53次だったのが、途中から「京街道」を整備。
いつの間にか、東海道と一緒にされ、57次が定着した、と私の調べた本やHPにはありました。

いずれにせよ、東海道を歩いた(走った)後、中山道を旅しようとすれば、草津~京都間の扱いに頭を悩ましますよね。
私も、同じく3択で迷いましたよ(笑)

最初はそもそも江戸にを起点にするか終点にするかで悩み、終点にすると決めたは良いが、今度は起点を草津にするか京都にするかで迷いました。
結局「69次」を尊重し、重複区間も走ることにしたんです。
この辺の詳細は、屈ブログの中山道編(0)や(1)をご参考いただければ幸いです。

「小関越」も、東海道や京街道(57次)で、逢坂の関を越える際、看板等で案内されてますから、凄く気にはなってました。
今思えば、1度ぐらい走っておいても良かったかな。
いや、またいつか挑戦するぞ、などと思っております。
更家
小関越え
そうですね、神田明神の話、私も面白くて驚いたので、記憶に残っていました。

う~ん、三井寺も行ってみたいし・・・、「小関越え」で京都を目指すのも魅力的に思われてきて、再び迷ってきますねえ・・・

JR東日本の講座に出席して、中山道のゴールの問題は解決しましたが、逆に、東海道57次の残りの4次を歩くか否か、という問題が残ってしまいました。
伏見の寺田屋、淀城、石清水八幡宮など魅力満載で、こちらの側の歩きも捨てがたいですねえ・・・
Komoyo Mikomoti
こんにちは。
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
神田明神の話、面白いですね!!
将門は、当時の人たちに、かなり恐れられていたということですね。


上のコメントにある「小関越え」は、北陸方面に向かう古道だと思いますが、これはかなり面白いです。
(山科を起点に歩くと、いつの間にか、三井寺の境内に入っていて、ただで拝観できます。)

それから、大津~山科間にある京阪「追分」駅付近から分岐して、伏見方面に向かう57次のルートも面白いと思います。
伏見までしか歩いたことはないのですが、
伏見宿は、寺田屋など見どころが多いですね。
その先も淀城とか石清水八幡宮などの史跡もあって、一度、57次のゴールまで歩いてみたいです。
更家
中山道のゴールは草津
実は、このところ、中山道のゴールを何処にするか、①~③の選択肢で悩んでいました。

①草津から京都まで東海道と同じルートをもう一度歩く。

②草津から京都に小関越えを入れて異なるルートを歩く。

③東海道と中山道の合流点の草津をゴールにする。

先般、JR東日本主催の「東海道と中山道の楽しみ方講座」に出席しました。

その際、講師の先生に、中山道の終点は京都か草津か、という質問をしてみました。

講師の回答は、「中山道の終点は正しくは草津です。従って中山道69次ではなくて、正しくは中山道67次です。」とことでした。

そこで、取り敢えず、今回の中山道歩きは、草津をゴールとすることに決定した次第です。

(蛇足ですが、このときの講座の趣旨は、「東海道”53次”は広重が間違えて広めたもので、大阪までの東海道”57次”が正しい、という内容でした。)
丹波の國から
とうとう愛知川宿
私は武佐宿から市田村、伊藤忠兵衛記念館、豊郷と歩きました。
中山道沿いの愛知川観光協会で、接待のお茶を二杯もいただいた記憶です。
この先草津宿から、東海道と合流しますが更家さんは、2012年 3月に京都まで歩かれていますので、どうなるのでしょうか?
更家
将門伝説の裏話
将門の怒りを鎮めるために創建された「御首神社」の話は面白いですね。

有名な「神田明神」の祭神は、現在は「将門」ですが、これについては、司馬遼太郎の「街道をゆく・神田界隈」で面白い話が載っていますのでご紹介します。

将門が討たれたのち、その怨霊は関東各地で恐れられ、「神田明神」も将門の怒りを鎮めるために創建された神社の一つでした。

その後、徳川幕府は、神田明神を江戸の総鎮守として庇護しました。

しかし、明治政府は”徳川憎し”でした。

「将門」が朝敵だったこともあり、明治政府の指示で、突然、本殿の将門の神霊が別殿に移され、本殿には茨城から別の神が入座しました。

それでは、「将門」は、いつ「神田明神」の祭神に返り咲いたのでしょうか?

昭和59年、大河ドラマ「風と雲と虹と」で将門ブームになると、神田明神の氏子総代と宮司が、神社庁などの関係官庁へ、将門の神霊への復活の許可を申請しました。

この許可が下りて、何と!昭和59年に、「将門」は「神田明神」の祭神に返り咲いたのです!!
Komoyo Mikomoti
将門伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
竹平楼の建物は、前を通り過ぎただけですが、私も印象に残っています。

将門の伝説は、いろいろなところにありますね。

岐阜県には「御首神社」という神社があります。
将門の首が京都に送られる途中で、抜け出して関東へと飛び立った。
それを見た南宮大社の隼人神が矢で射落とした。
御首神社は、将門の首が再び関東に戻らぬよう、
その怒りを鎮めるために創建されたとのこと。
絵馬の絵のデザインも、首が矢に射止められたというユニークなものでした。

首が飛ぶという話は共通していますね。
更家
平将門の伝説

平将門の伝説は関東だけだと思っていたのですが、この辺りにも将門の伝説が多いので驚いています。

そう、それに関東では勇猛な伝説なのに、こちらでは、歌詰橋とか、情けない伝説ですよね。
もののはじめのiina
平将門
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/c62b132e38dcf08df20602b9109b603a
平将門も、関東では勇ましく恰好いい伝説の地が多いですが、滋賀あたりでは「不飲橋」や「歌詰橋」とは馬鹿にされてますね。

>同じ神奈川県民ですが、相模原公園には行った事がありません。・・・わざわざ行く価値がありそうです。
県民公園は、県内にあちこちありますから、植物園も設置していそうですょ。

更家
記憶がなくて当然かも・・・
この辺りは特筆すべきところが何も無かったので、例によって、続膝栗毛を挿入して、文章を膨らませるのに苦労しました。

hide-sanさんの記憶がないのは、道を間違ったのではなくて、特筆すべきところが何も無かったからではないでしょうか。

確かに、私も、三留野宿に入る手前は分かり難かったです。
hide-san
記憶が
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
このあたり記憶がありません。
ボクは間違った道を歩いていたのでしょうか。

道を踏み外したのを覚えているところは、
三留野宿に入る手前と三条大橋に入る手前、
蹴上から三条までだと思っていましたが・・・
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