かもうな
奥州仙台 一之巻(続き)
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その知行地(在郷)からの収入で武士の生計(たつき)を立てるのには、知行地からの
税(年貢)を取り立てる必要がある。
時右衛門は一定の割合で税(年貢)を免除している。
その理由はこうである。
遡ること亨保17年(1732)仙台藩を襲った冷害による凶作、さらに災害が仙台藩を窮地
に貶めた。むろん百姓達の困窮は云うまでもない。これを「亨保の大飢饉」と云う。
時右衛門の知行地、つまり在郷も惨状を極めた。
在郷の百姓達を救うためには税(年貢)の軽減しかない。それでは武士としての生計が
成り立たない。
迷ったあげく考えついたのは自らの経費節減であった。
陪臣2名、中間1名、小者1名に因果を含ませ永暇を出したのである。それだけではない
亨保6年(1721)藩主伊達吉村参府(参勤交代)のおり江戸の神田で買い求めた「本朝食
鑑」「農業全書」を参考に、当時の仙台では珍しかった「梅紫蘇」を作り出している。
珍しさもあって大いに売れたが、その大部分を在郷で生産させた。
時右衛門はその利の大部分を百姓に与え、自らは質素倹約に徹した。
・・・・・次回は「養子縁組」・・・・・