誰でも自由なこころで 時代小説「かもうな」掲載中

江戸時代の仙臺藩髙橋家に養子に入った治郎の生涯を愛馬のすず風を通して描いた作品です。時代考は本当に大変でした。

かもうな 「奥州仙台」一之巻(続き)

2023年02月27日 19時49分36秒 | 日記

かもうな

奥州仙台 一之巻(続き)

              話は戻る

              その知行地(在郷)からの収入で武士の生計(たつき)を立てるのには、知行地からの

              税(年貢)を取り立てる必要がある。

              時右衛門は一定の割合で税(年貢)を免除している。

              その理由はこうである。

              遡ること亨保17年(1732)仙台藩を襲った冷害による凶作、さらに災害が仙台藩を窮地

              に貶めた。むろん百姓達の困窮は云うまでもない。これを「亨保の大飢饉」と云う。

              時右衛門の知行地、つまり在郷も惨状を極めた。

              在郷の百姓達を救うためには税(年貢)の軽減しかない。それでは武士としての生計が

              成り立たない。

              迷ったあげく考えついたのは自らの経費節減であった。

              陪臣2名、中間1名、小者1名に因果を含ませ永暇を出したのである。それだけではない

              亨保6年(1721)藩主伊達吉村参府(参勤交代)のおり江戸の神田で買い求めた「本朝食

              鑑」「農業全書」を参考に、当時の仙台では珍しかった「梅紫蘇」を作り出している。

              珍しさもあって大いに売れたが、その大部分を在郷で生産させた。

              時右衛門はその利の大部分を百姓に与え、自らは質素倹約に徹した。

 

                        ・・・・・次回は「養子縁組」・・・・・

 

 


かもうな 「奥州仙台」一之巻(続き)

2023年02月23日 08時51分37秒 | 日記

かもうな

奥州仙台 一之巻(続き)

               時右衛門夫婦は子に恵まれず、妻お豊との二人暮しであった。

               梅実の収穫、二人暮らしには大きすぎる庭の手入れ等でさびし

               さを紛らわせていた。
               250石取
にでもなると家来(陪臣)、小者などを合わせても5~

               6人居ても不思議ではないのだが、それが不思議といない。

               故に、時右衛門出仕の折は何時も一人である。

               朋輩からのあだなは「お一人さま」で通っている。

               時右衛門の名誉のために云うが、決してケチなどではない。

               使うべき所には使い、食べるものは食べる、着るものは着る、た

               だそれだけである。

               これには訳がある。

               当時仙台藩では江戸の武士のような俸祿米制度はなく、各々知行

               地が割り当てられ、そこからの収入で生計(たっき)を立ててい

               た。

               当時、その知行地を「在郷」(ざいごう)と云った。

 

               ※これは私の体験談だが、昭和34年東京の親戚に行った折、よく 

                「ざいご」から来たと云われたものである。

                上野から仙台まで鈍行列車で約8時間、座る場所なく新聞紙を敷

                き通路で両足を抱える苦難の旅であった事が思い出される。

 

                        ・・・次回に続く・・・

 

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かもうな 「奥州仙台」一之巻

2023年02月20日 10時12分59秒 | 日記

か も う な

奥州仙台 一之巻

              奥州仙台は武士の街である。

              当時の記録によると、仙台藩家臣約一万人、陪臣は三万人とある。

              武家屋敷に至っては、城下の七割を占めていたと云う。

              まさに武士の街仙台でもあった。

              延享三年(1746)定禅寺、歓喜院を東に、北に塩蔵町を望む東一番

              丁に梅屋敷と呼ばれる武家屋敷があった。

              この物語は仙台藩家臣一万人内の一人の物語である。

              伊達六代藩主宗村公の時代である。

              薬医門をくぐり屋敷玄関の脇には馬の口と称される廐舎があり、寛保三

              年(1743)屋敷の持馬、疾風は亡くなり、その屋敷の寂しさを一段と際立

              ていた。

              梅の花咲く季節ともなると奥州仙台は長かった冬から解放され、春を狩り

              に梅屋敷にと繰り出すのであった。

              歳は巡り宝暦二年(1752)

              屋敷の主は、高橋時右衛門(平士250石)40歳学問方目付、妻のお豊は

              35歳八幡町の醤油屋の三女である。

 

                                 ・・・次回に続く・・・

次回は23日(木)を予定しております。

 

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かもうな 

2023年02月19日 20時07分08秒 | 日記

仙台東一番丁(大正~昭和の初期)

かもうな(1)

一場の夢

文化12年(1815)春は朧 春告草が咲いている。

仙台藩士、いや隠居の身、高橋治郎左衛門82歳は老いた身を床に伏し。

肩に灸をしていた。近頃は軀の節々が痛い、とくに右首筋から右肩にか

けて痛む。諦めが肝心肝心と心に言い聞かせると少しは楽になるから不

思義なものだ。

 

ふと李白の「静夜思」を思い出す。

床前看月光 しょうぜん月光を看る

   疑是地上露 疑うらくは是れ地上の露かと

  挙頭望山月 こうべを挙げて山月を望み

低頭思故郷 首を低れて故郷を思う

 

我の人生とは如何なるものであったろうかまさに、浮世は夢のごとし一場の春夢だ

無我夢中で暮らした若い時代、老いをしり老いを迎えた昨今、まだ答えはでていない。

眠い

治郎は見た

遠くに馬がいる、「すず風」だろうか、確かに馬だ。

馬が嘶いている。なぜここに「すず風」がいるのだ。

すず風が

治郎は深い眠り入った。


時代小説 「かもうな」(仮名)を連載致します。

2023年02月19日 17時40分31秒 | 日記

物語は仙台伊達藩に生きた一人の青年武士の生涯を描いた小説である。

誰でも老いやがて長い旅にでる。しかし誰にでも青春時代がある。

石の下になっては何も語れない。

若い頃、祖先の足跡を墓石から、過去帳から遡り、亨保元年(1716)

までの祖先の名を知り得た。

そのような事がヒントとなり、82歳となり改めて時代小説を書く

事となった。何しろこのような経験は皆無であり、未熟ではあるが

老人に免じて大目に見て読んで欲しい。

なお、これを書くまでに多くの書籍を読み参考とした。

仙台郷土史夜話、仙台藩道中物語、仙台藩流刑史、宮城県の歴史散歩、仙台城歴史散策、、目で見る仙台の歴史

鹽竃神社、仙台藩犯科帳、城下町仙台を歩く、杜の散歩道、仙台地名考、伊達軍団の弓取りたち、地名は知っていた、

話すてけらしぇ仙台弁、仙台地図散歩、仙台懐古地図、東北の街道、絵図・地図で見る仙台などなど。

本小説は未だ完に達しておらず未完ではあるが、老暇を使いボツボツと書いて行きたいと思う。

この物語は、事実に基づいたフィクションであることをここに明記する。

何人も転載、複写をすることは禁ずる。

令和5年2月吉日

著者(仮名) 楠木治郎