かもうな(時代小説)
楠木治郎著
仙臺城の古絵図面
1 治郎が訓練した追廻馬場、左側の2が青葉川(広瀬川)
養父時右衛門の追廻馬場での訓導、すず風との触れ合いによって治郎が馬の
名手になるのは時間のもんだいだけであった。これまで養父は「”五島”(ごと
う)を忘るな、馬とて人と同じぞ」と治郎を戒めてきた。確かに治郎とすず風
は血を分けた兄弟も同然であった。
※「五島」とは後藤信康が愛馬で、伊達政宗公に献上され大阪冬の陣の際は老
齢のため参陣することができなかった。それを嘆き仙台城本丸から身を投げた
伝説の名馬である。また一説には元の飼い主後藤信康恋しさに身を投げたと言
う説もある。現代ではこのような伝説も知る人が少ないのは残念である。
当時、仙臺藩では百石以上は軍役規定により馬上出陣が義務付けられていたが
、なにせ泰平の世の中である。持ち馬を所有するのは比較的地位のある裕福な
武士だけの特権となっていた。
治郎の話に戻る。一方、追廻馬場では若い藩士の騎乗鍛錬が行われていた。始
めに御用馬方の指示に従い馬の手入れをする。本来は中間の役目だが鍛錬中は
自らが藁の束子で優しく毛並みを整える。それが終わりに近づくと馬について
の講義が始まる。運動前には飼葉を与えないっこと、馬の胃は消化不良を起こ
しやすいので飼葉は数回に分けて与えること、後方から馬に近づかないこと等
こと仔細にわたっての講義がある。
※和馬は西洋の馬と比べると強健で小柄である。何しろ80㌔もある鎧武者を乗
せて走るのだから強健だったことは間違いない。
さて、追廻馬場では若い武士達も騎乗訓練が始まろうとしている。最初は”居
鞍乗り”から始まり、それを習得したら馬上の人となる。厩頭の号令を受けて
騎乗し一人づつのスタートすることになる。
・・・集約(11)に続く・・・
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