バイク考
宮城県七ヶ浜町から正面には松島湾の浦戸諸島が見える。
・・・・・・愛車はホンダフリーウェイ250cc・・・・・
平成6年(1994)新車で購入以来乗り続けている愛車です。今年は2024年
ですからもう30年になりますね。\(^o^)/
至って元気で私を乗せて故障もせず文句も言わずに頑張っております。
もともと写真が趣味でしたので今でも一眼レフ持参でのプチツーリング
を楽しんでおりますが、もう83歳にもなるので辞めようかとも思っていま
すが、どうしてどうして軀がバイクに向いてしまうので止められないのが現状です。
これからの季節はバイクがう良いですね、何しろ風を切って走る醍醐味は
バイクならではのことです。
仙臺の町を歴史探索で歩くことが度々あるのですが、バイクは本当にチョイ
止めができるので便利便利!もう止められない止まらないですね。
この写真は外人浜で大戦以前は外国人オンリーだった海水浴場だった場所です。
今ではサーフィンのメッカになり休日ともなると大勢の若者で賑わいます。
正面に見えるのは蔵王連峰です。5月頃の写真ですのでまだ薄っすらと雪が見えますね。
若い頃のスナップです。バイクはホンダシャドーナナハンで日本三景松島の公営
駐車場でのものです。こんな時もあっのかなぁと今つくづく思っておりますね。
フリーウェイが人生最後のバイク、楽しまずしてこれ如何。
。。。。
・・・・・見てくださってありがとう。・・・・・
かもうな
一番手の日野助五郎は騎乗するのやっとでとてもスタートできる状態でなく
馬も乗り手を馬鹿にして全然動こうともしない状態だ。二番手の佐伯定右衛
門は日頃の訓練の成果がでてどうにか歩いているが、これまた馬が乗り手を
馬鹿にして勝手な方向に向いて歩き始めたものである。三番と御用馬方の声
が響くと治郎を乗せたすず風の足が地面を掻いて空を描く、治郎は手綱を開
きすず風を行きたい方向に誘導する。手綱は革製で伸縮があり治郎の意思を
的確にすず風に伝えた。背筋を張り坐骨を伸ばし治郎はすず風の疾駆を助け
る姿はまさしく人馬一体と言えるだろう。
右に清流青葉川(広瀬川)、左に青葉山峡谷を望み、遥かには花壇が見えた。
すず風は放たれた蝶のように追廻馬場を幾度となく駆け抜けた。いよいよ”
立ち透かし”の大技に入る。治郎は手綱を抑え馬場に弧を描くようにすず風を
誘導する。”袋をしっかりと踏みしめ走行の衝撃を吸収し、腰より上の安定
を図りつつ馬脚を一段と早くした。すず風の軀はすでに汗で濡れていたが、
それに答える力は十分に持ち合わせていた。
治郎とすず風はその時何を思っていただろうか。この世で生を受け互いに
出会えた喜びと、二度とは繰り返しがきかない人生の大切さを感じていたに相違ない。
※居鞍乗りとは、和式馬乗りであり我が国独特の騎乗の仕方。現代の乗馬は
馬の左側から乗るのに反して和式馬乗りでは右側から乗る。その理由は左の
腰に刀を帯びていて騎乗のとき刀の鞘が馬の腹に当たるためという。
※立ち透かし技とは、鐙に特徴があり和式鐙は袋のような造りになってお
り、その造りにより乗馬の安定が増しまるで地面に立っているかのごとく
安定し、矢を正確に打てるようにするための技。
集約(12)に続く
かもうな(時代小説)
楠木治郎著
仙臺城の古絵図面
1 治郎が訓練した追廻馬場、左側の2が青葉川(広瀬川)
養父時右衛門の追廻馬場での訓導、すず風との触れ合いによって治郎が馬の
名手になるのは時間のもんだいだけであった。これまで養父は「”五島”(ごと
う)を忘るな、馬とて人と同じぞ」と治郎を戒めてきた。確かに治郎とすず風
は血を分けた兄弟も同然であった。
※「五島」とは後藤信康が愛馬で、伊達政宗公に献上され大阪冬の陣の際は老
齢のため参陣することができなかった。それを嘆き仙台城本丸から身を投げた
伝説の名馬である。また一説には元の飼い主後藤信康恋しさに身を投げたと言
う説もある。現代ではこのような伝説も知る人が少ないのは残念である。
当時、仙臺藩では百石以上は軍役規定により馬上出陣が義務付けられていたが
、なにせ泰平の世の中である。持ち馬を所有するのは比較的地位のある裕福な
武士だけの特権となっていた。
治郎の話に戻る。一方、追廻馬場では若い藩士の騎乗鍛錬が行われていた。始
めに御用馬方の指示に従い馬の手入れをする。本来は中間の役目だが鍛錬中は
自らが藁の束子で優しく毛並みを整える。それが終わりに近づくと馬について
の講義が始まる。運動前には飼葉を与えないっこと、馬の胃は消化不良を起こ
しやすいので飼葉は数回に分けて与えること、後方から馬に近づかないこと等
こと仔細にわたっての講義がある。
※和馬は西洋の馬と比べると強健で小柄である。何しろ80㌔もある鎧武者を乗
せて走るのだから強健だったことは間違いない。
さて、追廻馬場では若い武士達も騎乗訓練が始まろうとしている。最初は”居
鞍乗り”から始まり、それを習得したら馬上の人となる。厩頭の号令を受けて
騎乗し一人づつのスタートすることになる。
・・・集約(11)に続く・・・
かもうな
話は次郎の幼き日に戻る。
次郎は幼い時から動物が大好きであった。白石では三毛猫をかわいがり
昼は肩に乗せ夜は共に寝た、描く絵には必ず馬がある程馬が大好きであ
った。養父時右衛門はそのような次郎の性格を的確に見抜いていた。
馬市に次郎を連れ出したのはそのような事情があったからである。
養父時右衛門の過っての愛馬疾風(はやて)は十数年前に亡くなってい
る。それ以来二度と馬を飼うことはなかった。疾風(はやて)が愛おし
かったからである。その後、彼は己から馬への未練を捨てた。しかし次
郎の人生はこれからである。幸いにして次郎は利他の心を持ち合わせて
いる。この子を伸ばすには大好きな馬を与え己の力で自分が選んだ道を
貫き通させることが大切だと時右衛門は考えた。
※利他の心とは仏教用語で「自利利他」と言い、自分が幸せになると
同時に他人を幸せにすることと説いている。龍樹菩薩は「利他者即是
自利」(他を利するはすなわちこれ自らを利するなり)と説いている。
さて、次郎が養子に入って間もなく養父時右衛門は「馬相図」「解馬
新書」を与え次郎に読み聞かせた。とくに次郎のお気に入りは馬相図
であり、躍動感溢れる馬の絵が色鮮やかな色彩で描かれているおり、
次郎は片時もその本を離さなかった。馬事に関する知識が次々と次郎
に吸収されるを見届けながら伊達家伝来の「大坪本流武馬必要」で馬
医術を学ばせ次郎15歳のときすず風を与えたのである。
16歳になり仙臺城の追廻馬場での乗馬訓練が始まった。いつも傍には
養父時右衛門が付き従い馬術の基本である”居鞍乗り”から始まり”立ち
透かし”の技を伝授している姿があった。
当時、仙臺城城内の追廻馬場は仙台藩士子弟の乗馬訓練の場所とされ
長さは約200間程あり青葉川(広瀬川)河岸にありその敷地には北厩、
中厩、馬繋舎が配置され、藩の御用馬数十頭余りが養育されていた。
集約(10)に続く