かもうな
一場の春夢
文化12年(1815)春は朧、春告草が咲いている。
仙臺藩士いや隠居の身、髙橋治郎右衛82歳は老いた身を床に伏し、肩に灸をしていた。
近頃は軀の節々が痛い。とくに右首筋から右肩にかけて痛む。
諦めが肝心肝心を心に言い聞かせると少しは楽になるから不思議なものである。
ふと、李白の「静夜思」をつぶやく
床前看月光 (しょうぜんと月光を看る)
疑是地上露 (疑うらくは是れ地上の露かと)
挙頭望山月 (こうべを挙げて山月を望み)
低頭思故郷 (こうべを低れて故郷を思う)
己の人生とは地上の露であろうか、それとも一場の春夢なのか。
無我夢中で過ごした若き時代、老いも知り老いを迎えた昨今、まだ答えは出てない。
眠い。
治郎は見た。
遠くに馬がいる。「すず風」だろうか。
確かに馬だ。馬が嘶いている。
なぜここに「すず風」がいるのだ。
「すず風」が。
治郎は深い眠りに入った。
奥州仙臺
奥州仙臺は武士の街である。当時の記録によると、仙臺藩に「梅屋敷」と呼ばれる武家
屋敷があった。薬医門をくぐり玄関に至る脇には馬の口と称される厩舎があるが、馬の
姿も見えず屋敷の寂しさを一層と際立てていた。
梅の花咲く季節ともなると奥州仙臺は長い冬から開放され、城下の人々は東一番丁の
「梅屋敷」にと春を狩りに繰り出すのだった。
宝暦2年(1752)屋敷の主、髙橋右衛門は平士250石、学問方目付で40歳、妻のお豊は
35歳、この夫婦には子が恵まれず二人暮らしであった。
年ごとの梅実の収穫と庭の手入れなどで寂しさを紛らわせていた。
250石取りでもなると家来(陪臣)や中間、小者など5~6人は居ても良いのだが、この
屋敷には姿が見えないのである。
故に、時右衛門出仕の折には、いつも一人である。朋輩からのあだ名は「お一人さま」
で通っている。
時右衛門の名誉にために云うが、決してケチなどではない。使うべきには使う。
食べるものは食べる。着るものは着る。ただただ質素にと云うだけである。
これには理由がある。
当時、仙臺藩では江戸の武士とは異なり俸禄米制度はなく、石高に応じた知行地を与え
られていた。つまり仙臺藩士は藩から知行地を与えられその知行地から得た収入で生計
(たつき)と立てていた。当時その知行地を「在郷」(ざいごう)と呼んだ。
集約(3)に続く