かもうな
また白石城・歴史探訪ミュージアムには白石城についてこう記載している。
「白石城は標高76メートル最頂部には本丸、中の丸、西曲輪、中段には沼ノ丸、南ノ丸、巽曲輪
厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で斥稜を切断、館堀川で隔てた」
「平地には三ノ丸、外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ9メートル余の石垣の上に土塁を
囲み、三階櫓、巽櫓、裏大手門、裏三階門を備え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。
二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木棚をまわして崖を利用する等中世を近世城郭を併用した縄張り
であった」と記されている。
白石城
大藩の多くが泰平の世に溺れ、武士たる者の本分を忘れ、武士の一分が形骸化されつつある
世において白石藩士は「尚武の気風」を保ち続けた。
※「尚武の気風」とは、心身を強く持ち、勇気を持つこととある。さらに武を学び自己を確立
し自立する大切さ言う。
参考までに(有)フジックス社長はブログで「これには陰と陽があると解き、陽は武道の技、
それだけではなく陰の精神を尊ぶ心がけが必要と説いている。」
さて、白石藩士佐藤長十郎の屋敷は城から東の八幡山の麓で、南ノ丸のお堀近くにあり、至って
質素な屋敷であったがその佇まいは白石武士の質実剛健な気風が感じられたものである。
ここからは次郎左衛門を次郎と呼ぶ
次郎は始めて逢う養父母に緊張しながらも正座をし
「この度はわざわざ仙臺から私のためにお越しいただきありがとうございます。未熟者ですが
これからもよろしくお願い申し上げます。」
親に教えられたか淀みなく挨拶をしたが肩が震えていた。
これからわが身に降りかかるであろう運命に抗うことができない無力さを感じていた。
運命とは人智の及ぶ所也、宿命とは人智の及ばざる所也。これを合わせて天命という。
論語には「子曰く、吾十有五にして學の道に志し、三十にして立つ、四十にして惑わず
五十にして天命を知る。六十にして耳順(したがう)とある。
果たして次郎が天命を知るのは何時のことであろうか。
幼き頃から慣れ親しんだ白石の町、ホタルが乱舞する清流、雪を冠った蔵王連峰が次郎
から離れようとしている。親兄弟と別れ観たこともない仙臺に暮らすことになるのだ。
仙臺とはどんなところだろう。不安は波のように次郎に襲ってくる。
次郎の父長十郎は決して時右衛門に金銭を求めることはしなかった。
愛おしそうに次郎の頭をなでながら
集約(6)に続く
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