誰でも自由なこころで 時代小説「かもうな」掲載中

江戸時代の仙臺藩髙橋家に養子に入った治郎の生涯を愛馬のすず風を通して描いた作品です。時代考は本当に大変でした。

かもうな 集約(4)

2024年03月01日 13時52分04秒 | 日記

かもうな

             内容はこうである。

             寛保3年(1743)不審火により白石城勘定所が焼け保管してあった諸記録が消失すると

             いう事件があった。白石藩主片倉小十郎村兼の時である。

             当時、勘定方役であった佐藤長十郎が職務がら忘備録を記していたことが幸いしてその

             上役である宍戸七郎右衛門の首が繋がったこと、さらに長十郎の律儀さを褒め、その子

             ならばと言う文面であった。

             かねてより宍戸七郎右衛門の高潔な人柄を高く評価していた時右衛門夫婦は即座に白石

             と向かうのだった。

              仙臺藩道中物語「上り新道中歌往来」から抜粋するとこのような歌がある。

             長町や中田増田も速過ぎて 岩沼御経たて八楠木

             船迫こゆる荷物は大河原 さけた財布も思い金ケ崎

             宮てのむ酒は白石斎川 水おも入れずこす河の関

 

                                              また東北の街道「大藩の気風」には

             仙臺藩何事についても統制の厳しい大藩である。藩境には越河宿(こすごう)宿があり堺

             目足軽が集在し、藩境を超える人・者の改を行っていた。

             藩主の参勤交代時にはここまで重臣が送り迎えし、仙台城下までの各宿駅には重臣や家臣

             が班を編成し詰めたとある。

 

             孫太郎虫(へびやトンボの幼虫を干して疳(かん)の薬とする)で有名な斎川を過ぎると

             片倉小十郎の城下に近づく。

              時右衛門の夫婦は仙臺城下から南に長町宿、中田宿、増田宿、岩沼宿、槻木宿、船迫宿、

             大河原宿、金ケ崎宿、宮宿、斎川を経て白石城下に到着したのは延亮3年7月5日四ッ時(午前

             10時)頃であった。

              時右衛門は道中日誌にこのように記載している。 

             「奥州街道を上りて白石に行たるところに金ケ崎宿あり、白石藩足軽ども常駐し伝馬役を努め

             その屋敷の門、みな白石方向に向きたるなり、しかるに百姓どもの門は仙臺方向に向きたるなり

             まことに面白き宿なり。 またこの地には白鳥を神の使いとして尊ぶ風習あり、その碑、寛文13

             年(1673)及び元禄12年(1699)の二碑を見たり」

 

             さてこの辺で簡単に白石藩を紹介したい。

             「伊達軍団の弓取りたち」から引用するとこう書いてある。

             片倉小十郎景綱といえば、政宗の幕営にあって知識の聞こえ高かった名参謀して名高い。

             梵天丸といった政宗の幼少時代縛り役(おもりやく)として訓導し、長じてその帷幕の軍師と

             なって陰に陽に政宗を訓導した人物である。

 

                                集約(5)に続く

           

              

  



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