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とるにたらないブログ。

古代史の謎〜ヤマト王権の形成 (5) NHKラジオ

2025年01月28日(火)、放送分。

興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。

間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。


古代史の謎〜ヤマト王権の形成 (5)前方後円墳の出現

・古墳時代とは何か。
前方後円墳が権力を表すものとして機能していた時代、
という位置づけができる。

・↑その時代の始まりは、前方後円墳が出現した時期であり、
現在のところ3世紀半ばから後半であると考えられている。

・↑卑弥呼死んだのが248年くらい。
台与が活動していたのが、
260年代頃ということになので、
前方後円墳が出てきたのは、
卑弥呼の死から、台与の活動してた時期ということになる。

・古墳時代の始まりが、
3世紀半ばなのか、4世紀なのかは、
弥生時代の終わりと、古墳時代の始まりに、
に空白があるかないかの、
大きな問題となっている。

・弥生時代は、稲作中心の生産経済が始まった時代。
その結果、各地に権力が発生する。
そして、身分の分化が起こり社会が複雑化してゆく。

・古墳時代になると、各地の権力が前方後円墳を作り、
前方後円墳を中心とした、政治的秩序が形成されていった。

・古墳は土を盛った(マウンド)巨大な墓。
弥生時代にもマウンドはあったが、
性質が違ってきている。
(25分)

・↑そのため弥生時代のマウンドは、墳丘墓と呼び区別している。
ただし、厳格な基準ではない。

・弥生時代の墳墓には、
地域的な違いがあった。
地域ごとの独自性が非常に強かった。
邪馬台国時代は、各地の権力の自立性があった。

しかし、古墳時代には、
各地の権力は皆前方後円墳を作るようになる。
自立性よりも一体性が優先されたからともいえる。
政治的なまとまりが進んでいる。

・卑弥呼の時代と古墳時代とでは、
政治的な接合性に大きな違いがある。

・3世紀後半以降の、政治的な同質性の高い連合体の盟主が大王であり、
その政権を大和政権とよぶ。

・前方後円墳は、その地域のリーダーだけが作れる特別な古墳だった。
豪族であれば誰でも作れるわけでもない。
大和政権との繋がりが重視された。

・前方後円墳という名称は江戸時代に出てきた。
蒲生君平の命名。

・↑なぜ四角が前と考えたのか。
江戸時代には、車塚と呼ばれる古墳が、あちこちにあった。
なぜ、車と言われるのかと考えた結果、
馬車は上から見ると、馬が四角で人が乗るところが丸と考えたから。

・↑歴史的に見ると、成り立たない。
魏志倭人伝には、日本列島には牛や馬はいないと書かれている。

"それを信用して良いものか?。"

・↑日本列島に馬が来たのは、
4世紀後半から5世紀前半に渡来人と共に来た。

なので、馬は日本にいなかったので、
馬車のイメージからの前方後円墳説は成り立たない。

・最初の前方後円墳は、箸墓古墳。
纏向遺跡付近で3世紀半の造営と考えられている。

・↑日本書紀にもある。
昼は人が作り夜は神が作ったと。

・↑卑弥呼の晩年から、台与の初期の時代にあたる。
また、日本書紀の女性の墓という記述から、
卑弥呼の墓ともいわれる。

・魏志倭人伝では卑弥呼の墓は、
径100余歩(約150m)とあるので、だいたい近い。

しかし、だから卑弥呼の墓だと言うのは注意が必要。

・前方後円墳について。
弥生時代の甕棺が横から見ると、前方後円墳に似ているからという説。

初期の頃は丘陵の地形を利用して作っていることが多く、
丘陵の地形に沿って作ったからこうなったという説。

丸い古墳に祭壇が付いていてそれが前方後円墳になったという説。

円墳には身分の高い人が葬られ、家来がその周辺の四角い墓で葬られていて、
それらがくっついた説。

・↑特に注目されるのは、
中国の影響があったという説。
魏の後の晋王朝の歴書に、266年に倭人が来たとあり、
円丘、方丘で祭祀があったと記録がある。
"すみません、ここ正確には聞き取れなかった。"

・中国には天円地方という考えがある。

・↑ここから、倭人が前方後円墳を、思いついたのではないかという説。

・↑しかし、倭人が来たという記述と、円丘、方丘の記述は別の記事であり、
倭人がこの祭祀に参加していたとは、
考えにくい。
なので、この説は難しいと言わざるを得ない。

・纏向遺跡では、箸墓古墳以前に、
前方部分が非常に小さい、ホタテ貝式古墳が3世紀前半から作られている。
これらの四角が大きくなって前方後円墳が出来たと考えられる。

・ホタテ貝式古墳の出現は?。
瀬田遺跡の円形周溝墓には、溝には陸橋があった。
そのうち陸橋の周囲にも堀が作られ、
それが成長してホタテ貝式古墳に、
それがさらに成長して前方後円墳になったという過程が考えられる。

・前方後円墳は形から見ると、近畿地方の特徴を受け継いでいる。

・↑しかし、前方後円墳は近畿的な特徴だけではない。

・↑円筒埴輪は弥生時代後半に、吉備(岡山県)で作られていた、
特殊器台が変化したものと考えられている。

・↑古墳には崩れないように、石を張り付ける(葺石)が、これは山陰地方で多く見られる。

・↑副葬品の銅鏡は九州北部との類似性が強い指摘されている。

・前方後円墳は、弥生時代各地の墳丘墓の特徴を、寄り合わせて作られたものであり、
連合体の象徴として作られていったと理解できる。

・前方後円墳は3世紀後半から4世紀初頭にかけて、
東北南部から九州南部にかけて作られている。

これは大和政権の成立を考える上で非常に重要。

・↑短い期間に一斉に作られているということは、
近畿地方の大和政権が徐々に征服していったのではなく、
一斉に変化していっているから、

広い連合体が、3世紀半ばから広範囲成立し、
そこに加わった勢力が、前方後円墳を作り始めた。

・古事記、日本書紀では、
大和政権が各地を討伐したように書かれているが、
前方後円墳分の出現の仕方から見るに、そうではないらしい。

・前方後円墳は有力者だけが作れる。
その下は前方後方墳。
その下は円墳。
その下は方墳。

という、序列があったという学説がある。
前方後円墳体制、都出比呂志。

・↑ヤマト王権が許可を出すことによって、作ることができると考えられる。
同じ形になるように、設計図的なものもあったと考えれあれる。

・↑大王が前方後円墳の製造の可否を判断し、
造営の技術者を派遣して、有利な立場を築いていったと考えられる。
このように大王が豪族を支配する体制が古墳時代に起きたと考えるのを、
初期国家論という。
"聞き取れなかったので間違っているかも。"

・↑しかし、大きさは違っても、
大王も地方豪族も同じ形の前方後円墳を作っているのだから、
明確な質的な格差はなかったとも言える。

大きさの違いは力の差だが、
形が同じということは質的には同じ。
大王は突出した地位ではなかったのではないのか。
君臣関係ではなかったのではないのか。




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